マルヒロ
マルヒロは波佐見焼の露店商、馬場廣男商店として昭和32年(1957年)長崎県波佐見町で創業。波佐見焼は有田焼の下請けとして発展してきた歴史があり、近年までその名はあまり知られていませんでした。産地全体が分業制で成り立ち、マルヒロは商品企画や商品を流通させる商社としての役割を担っています。バブル崩壊や消費者の嗜好の変化などで何度か倒産の危機に直面しましたが、2000年代以降は自社ブランドを展開し江戸時代に大量生産された庶民向けの日用食器「くらわんか碗」の文様を再現したいろはシリーズや、これまでの波佐見焼には見られなかった単色の色使い、厚さ、無骨さが特徴的なHASAMIシリーズのブロックマグなどを開発し好評を得ました。日用食器を得意としてきた歴史と、下請けとして発展してきた産地ならではの伝統に縛られない強みを生かしながら、400年以上に渡って培われてきた職人の高い技術を絶やさぬよう日々取り組んでいます。
■ 歴史:海外需要で急速に発展 庶民も手に取りやすい磁器を生産
長崎県の波佐見焼は1600年頃、文禄・慶長の役に参加した大村藩主の大村喜前が、朝鮮の陶工・李祐慶兄弟たちを連れ帰ったことから始まりました。日本の陶磁器発展の転機は、陶磁器生産の草分けである中国がそれまでの明朝から清朝へと政権交代した際の内乱でした。この内乱によって、多くの窯が壊され、他国との貿易も禁止されたことにより、世界への焼き物輸出がストップ。そこで貿易商人は、力を伸ばしていた肥前(現在の佐賀県、長崎県)の焼き物に目をつけ、波佐見への注文が急増しました。波佐見では次々に新しい窯が開かれ、東南アジア諸国を中心に大量に輸出されたと考えられています。しかし、内乱がおさまった中国が貿易を解禁、海外市場を急速に取り戻したことで、波佐見は国内向けの安い日用食器の生産に方向転換します。窯の数や大きさを生かし、磁器を大量生産して価格を抑えたことで、庶民も手に取りやすい日用食器を生み出しました。マルヒロ3代目社長、馬場匡平さんの実家は、その波佐見町で外部からの注文をまとめ、完成品の配送手配をおこなう「産地問屋」としてマルヒロを経営していました。
■ 土地性:昔は伊万里焼、有田焼として 風土に恵まれた波佐見焼
波佐見町は長崎県唯一の「海無し町」ですが、燃料(木々)、水、土という焼き物の生産に欠かせない風土に恵まれています。特に、町南東部の丘陵一帯から産出する陶石(磁器の主原料)が、波佐見の地に焼き物という産業を定着、発展させました。世界最大の登り窯と言われる大新登窯跡(中尾山エリア)からは、江戸時代の庶民向けの器「くらわんか」が大量に出土し、波佐見窯業が成熟した産業であったことが分かります。しかし、波佐見焼は江戸時代には伊万里港から船積みされて運ばれたことで「伊万里焼」、明治時代には有田駅から出荷されたため「有田焼」として流通していました。生産地表示の厳格化が進んだことで「波佐見焼」を名乗るようになりますが、一転して無名の焼き物となってしまった波佐見焼の売上は激減します。知名度の高い有田焼からの決別でしたが、波佐見焼のアイデンティティや強みを再認識しスタートを切った波佐見焼は、新たなブランドを確立していきました。
■ 素材・技術:分業制が可能にした、高品質な焼き物の大量生産
人口約15,000人の小さな波佐見町で、高品質の焼き物の大量生産ができているのは、古くから窯業が盛んであったことから確立されている「分業制」が大きな理由です。波佐見町では、型屋、生地屋、陶土屋、窯元、上絵屋、産地問屋など、各工房がそれぞれの工程を担っています。それぞれの技術を極めることで波佐見焼全体の品質も上がる、という素地があったからこそ「波佐見焼」の品質が保たれているのです。波佐見焼には天草陶石を使用することで、上品な白さが印象的な器になります。製作工程では、まず陶磁器の石膏型を作る「型屋」が平面である図面から立体へと変化させ、そこに「生地屋」が生地を流しこんで固める鋳込みや、機械ろくろ、手ろくろで成形をします。十分に乾燥させた後、「窯元」では素焼きで水分を飛ばし、下絵付けや釉がけといった仕上げを経て約1300度の本焼成(ほんしょうせい)に移ります。焼き上がったものに釉の上から絵を描く上絵付を施し、約800度で再度焼きあげて完成です。最後に「問屋」での厳しい検品を通ったものが全国へと出荷されます。
■ 思想:従来のイメージから発想の転換 ロマンを込めた新しいHASAMI
産地表示の厳格化によって売上が激減した波佐見焼の例にもれず、マルヒロも厳しい経営を強いられていました。しかし、20代前半でマルヒロを継いだ馬場匡平さんは、試行錯誤の末、2010年に「60年代のアメリカのレストランで使われていた大衆食器」をコンセプトにしたポップな色合いのブロックマグ「HASAMI」シリーズの販売を開始、起死回生の一手となりました。従来の薄くて繊細という陶磁器のイメージを覆し、アパレルやスケボーブランドなどの異なるカルチャーを交えた商品は、馬場さんの背景があるからこそのアイデアかもしれません。また、マルヒロは日本酒や醤油の輸出に使われていたコンプラ瓶の復刻や、遊びに来た人が焼き物に触れられる公園「HIROPPA」の運営もおこなっています。波佐見町があってこその波佐見焼、という町への想いと共に、マルヒロも自由な発想で取り組みを続けています。
参考文献
マルヒロ公式Webサイト、長崎窯業技術センター「やきもの基礎知識」、中川政七商店Webページ、F.I.N.インタビュー記事
長崎県のつくりて 全4社
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