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【織元インタビュー #2】 もんぺと久留米絣のディープな関係と変遷。生き残るために選んだ道。/ かすり西原 (2019. 5)

このコラムは、「第9回 もんぺ博覧会(2019年5月開催)」に付随した特集記事を転載しています。

日本人女性初の「ズボン型衣服」だった「もんぺ」の誕生。

「もんぺ」にはいろいろなイメージが付随しています。戦争、ほたるの墓、農作業、おばあちゃん・・・。その時におそらく皆さんが思い浮かべる井桁模様の生地こそが、絣(かすり)の生地です。

綿(コットン)織物である久留米絣は、昔は主に日常着の着物用の生地として、織られ着られていました。しかし明治以降の日本では洋装も取り入れられるようになり、「外ではスーツ・家では着物」など西洋式と日本式が織り交ざるようになっていきます。

そんな中、日本が太平洋戦争に突入し、総動員体制がしかれて資源不足に陥った時代、新しい布を使わずに、より「日本的」な服装・制服を確立しようという動きが生まれます。

そこで当時の厚生省は、1940年に男性用に『国民服』を制定し、1942年には女性用の着衣のガイドラインとして『婦人標準服』を制定します。この中で発表された「活動衣」の一つが、もんぺなのです。

『婦人標準服』で発表されたのは、洋服型(甲型)・和服型(乙型)・活動衣の3種7パターン。当時は家族の衣服を女性が仕立てるのが当たり前の時代で、しかも新たな布を使わずにいかに作れるかに焦点があたっていたため、着物をほどいて反物の状態から仕立て直す前提でデザインされていました。

活動衣ですから、高価な絹の着物をほどいて作るのではなく、おそらく当時の女性たちは日常着の綿の着物をほどいてこうした衣服を仕立てていたに違いありません。当然、その生地の中には久留米絣が含まれていたと考えられます。

ちなみにもんぺは、日本人女性にとってははじめての「ズボン型衣服」。東北の農村地帯などで昔から着用されていた「股引」や「山袴」など、着物の下に穿くような野良着はそれまでも存在しており、もんぺもそこから着想を得たといわれていますが、まさに日本式と西洋式が合体した新しい形でした。

当初は女性たちから「恥ずかしい」「カッコ悪い」と評判もよくなかったようですが、空襲が激しくなり、着用回数が増えていくにつれ、あたたかくて動きやすいという利便性が発見され、戦後も農作業着として定着するようになったといわれています。

もんぺとして全国へ届けられた久留米絣。

そうして「もんぺ」の需要が高まった戦後、久留米絣はもんぺ用の生地として重宝されました。絣の生地を仕入れもんぺに仕立て、全国に販売する問屋も数多くあったといわれます。

そんなもんぺ用の生地を長年織り続けてきた織元の一つが、筑後市で昭和初期から久留米絣の生産を続ける、かすり西原さんです。3代目の西原俊明(にしはら・としあき)さん(60歳)によると、30年前くらいまでは野良仕事用のもんぺ生地が生産の主軸だったそうです。

もんぺ用の久留米絣の生地で思い浮かべるのは、井桁や花柄の模様に、赤・黄・緑などの色が点々と散りばめられたような柄。このカラフルな色は「つまみ染め」と呼ばれる技法で作られています。

糸を縛って、染めて、ほどいて、白く残ったところが柄になる絣(かすり)では、多色使いが難しいです。そこで、白く残った柄の一部を、後から部分的につまんで染料をすりこみ、ポイントで色を入れていく技法のことを「つまみ染め(もしくはすり込み)」といいます。

非常に手間がかかるため、現在ではなかなか見ることができませんが、もんぺという農作業着でありながら、少しでも色をくわえておしゃれを楽しみたかった女性たちと、激しい競争の中で付加価値をつけなければ売れなかった産地の織元の創意工夫だったんだろうと思います。

また、昔のもんぺ用の生地は、いま主流の久留米絣の生地と異なり、単糸(たんし)という種類の糸で織られていたので、着れば着るほど非常に柔らかい風合いだったそうです。現在は双糸(そうし)と呼ばれる、糸と糸を撚り合わせてより丈夫になった糸を使っているので、そこに生地の艶や張りが加えられています。

もんぺ時代の終焉。柔軟性で乗り切った激動の時代。

しかしそんな「もんぺ時代」も、高度経済成長にともなう急激な洋装・ファッション化で、終わりを迎えていきます。久留米絣の産地では、もんぺは残った生地を安くさばくための商品となっていき、もんぺを売り始めた織元は潰れる、などと言われるようになったという話も聞きます。

高校を卒業してすぐ18歳で家業を手伝い始めた西原さんは、まさにそんな転換期を生き残らねばなりませんでした。当時は動力織機を使った生地と、出機(内職の織り手への外注)での手織り生地と、両方生産していたため、もんぺ生地が売れなくなった30年ほど前、一時は動力をやめて手織り生地を主軸に切り替えたそうです。

「昔は手織りは着物用の生地だったんですけど、もんぺが売れなくなってから作ったのは、小物用です。コースターとかワンポイントで使われる手織り生地をメインで作り始めました。サロンエプロン用かなんかがものすごく売れて忙しかった記憶があります。」

しかしその需要もまた下火になり、ふたたび動力のシャトル織機で織る、洋服用の生地が主軸になっていきました。これまでのもんぺ用の生地とは異なり、さまざまな色や糸の組み合わせを試行錯誤しながら試し、洋服として取り入れてもらえる生地の開発が大変だったといいます。今ではスラブ糸を使った凹凸のある生地や、カラフルな生地が人気となり、定番柄として織り続けているそうです。

「昔はこの筑後にもたくさんの織元がありました。その中で自分たちがなんとか残ってこれたのは、もんぺ用、手織り、洋服用と、時代にあわせて柔軟に変化してきた、せざるを得なかったからだと思います。」

これからの時代は西原さんにとっても未知の世界ですが、息子さんと娘さんが久留米絣の仕事がしたいと家業を手伝ってくれている今、どんなニーズの変化があっても続けていけるような、柔軟性を保つための技術の伝承に力を入れたい、と話してくださいました。

そんな時代の変遷を経てきた「もんぺ」。農作業着から日常着として再解釈し直すことで、久留米絣とのディープな関係が続いていってくれたら・・・と願います。渡邊

 

◎かすり西原
〒833-0054 福岡県筑後市大字蔵数9-3
0942-52-3602

Photo credit: Koichiro Fujimoto

 

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