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【#8】 ものづくりは、ものをつくるだけではない - 筒井時正玩具花火製造所の例 – UNA DIGTIONARY vol.8
【ものづくり】
1. 生産や製造を意味する言葉
2. 技術を習得した者が意思をもって巧みにものを作ること
3. 「もの」をつくること。「もの」と「まわり」をつくること。その全て
4. 土地、時代、環境の変化と多様化の中で「もの」を「つくる」という行為。またはその思想
線香花火と日本人
皆さんは、線香花火が落ちてしまわないように、しゃがみこんで光る様子を眺めた記憶はありますか?最近では、花火をできる場所が厳しく制限され、花火で遊ぶ、という機会自体が減ってしまっているように思います。線香花火の燃える様子を、日本人は季節や人生、花など様々に例えて楽しんできました。火を灯し、ぷっくりと火球が膨らむ様子を「蕾」や人の誕生、やがてパチッパチッと火花が出てくる「牡丹」を青年期、だんだんと火花が大きくなるところを「松葉」や人生の様々なライフイベントの重なる壮年期、そして火花の勢いが衰え光がゆっくりと弱まる様子を人生の幕を下ろす「散り菊」。この儚いストーリーにも日本人は魅せられていたのかもしれません。
こんなお話だと、線香花火は日本でのみ親しまれているように思われますが、実はヨーロッパではJapanese Matchという名で19世紀頃には知られていたといいます。現地でも、金属粉が含まれていないのに爆ぜる点など、科学的に興味深い研究対象とされていました。「色」を楽しむ西洋の文化では、単色であっても花のように広がる日本の線香花火の「形」で楽しむ文化は珍しいものだったのかもしれません。日本でも、物理学者の寺田寅彦や、彼の門下生である中谷宇吉郎(雪の結晶の研究で有名)も線香花火に魅せられ、成分分析などの研究をおこないました。しかし、現在に至るまで、なぜ火花が出るのか?なぜ儚い色になるのか?といった疑問は完全には解決されていませんでした。
ものをつくるだけじゃなくなった ものづくりの「変化」
一つのものを手にとった時、その「もの」ができるまでには、素材になる原料を集めて、組み立てて、商品にして、手にとってもらえるところまで運んで、という目には見えない長い長い工程があります。そして魅せ方や伝え方、どうやって体験するか、といった道を通ってやっと「つかいて」の手もとへ辿り着くのです。その流れは、私たちの生活スタイルが変わるにつれて、同じように変化していく、時には変化せざるをえないものです。今回特集する、福岡県みやま市の筒井時正玩具花火製造所では、花火ができるまでの「つくる」「売る」だけでなく、お客さんが「買う」「使う」「知る」のところまで、様々な変革をおこしています。そんな筒井さんの活動を通して、うなぎの寝床も「ものづくり」の変化を考えてみようと思います。
今回は筒井さんの大きな4つの変化をご紹介します。
安価な外国産に対抗するパッケージデザイン、花火を選んで買うという「文化」を繋ぐこと、線香花火の原料であるワラスボのための米作り、そして思いっきり花火を楽しんでもらうための宿「川の家」。どれも筒井さんの「花火」そのものからは見えにくい変化ですが、時代とともに、ものづくりが変化するとても面白い事例です。
「先人の知恵」に固執せず、時代と共に歩んでいく筒井時正玩具花火製造所さんの詳細を見ていきましょう。
目次
◯ 筒井時正玩具花火製造所について
◯ 『西』と『東』の線香花火って?
◯ 小話① / 化学で解けた、線香花火の謎
◯「届けること」「買うこと」「作ること」「遊ぶこと」 筒井さんが起こした変化
【その1】「花火の届け方」というデザインを変える
【その2】「選ぶこと」、その行為も含めて花火を楽しむことなんだ
【その3】もう材料がなくなってしまう! 迫られる変化
【その4】花火で思いっきり遊べる宿 「川の家」
◯ 小話② / そもそも花火って?
◯ 変わりゆくものづくり
筒井時正玩具花火製造所について
筒井時正玩具花火製造所は1929年、福岡県高田町(現在の福岡県みやま市高田町)に創業し、現在は3代目の筒井良太さん・今日子さん夫妻が中心に玩具花火製造をおこなっています。みやま市にもいくつか玩具花火の製造所があったそうですが、1990年代頃には海外産の安価な輸入花火に押され、多くの製造所が廃業に追い込まれました。福岡県八女市吉田にあった製造所「隈本火工」も、多くの職人が生産を支えていたそうですが1999年に廃業に追い込まれ、日本の線香花火は途絶えかけます。その隈本火工は良太さんの親戚が営む工場だったため、廃業前に修行を行い、もともと線香花火をつくる工場ではなかった筒井時正玩具花火製造所で復活を果たしました。そして現在、「スボ手」の線香花火を国内で唯一製造する玩具花火の製造所となっています。
こうして数が減っている花火業界ですが、現在でもみやま市では煙火花火が4社、玩具花火が2社の計6社が残っており、全国的にも珍しいほど製造所が密集しているのだそうです。しかし、ご高齢で活動されているところもあり、こういった手工業は一度途絶えてしまうと再興が難しくなるため、なんとか繋がなくては、という思いで筒井さんは日々奮闘されています。
「スボ手」の線香花火はやはり特別なものですが、筒井時正玩具花火製造所では、他にもさまざまな種類の玩具花火を製作しています。例えば、日本古来から伝わる郷土玩具が動物の体型や動きの特徴を捉え、表現していることにインスピレーションを受けた「どうぶつはなび」シリーズでは、豪快に潮を吹き上げる鯨を花火で表現したり、くねくねと空を飛ぶ龍をイメージした龍花火を製作したりしています。また、日本の象徴的な富士山を花火にした「花富士」は浮世絵に出てくるような赤と青の色で、富嶽百景が思い出されます。
『西』と『東』の線香花火って?
実は、線香花火には「長手」と「スボ手」の2種類があり、東日本と西日本によって使われていたものが異なっています。「長手」はカラフルな和紙の下端に黒色火薬を包んだもので、東日本で一般的に使われていました。現在でも、線香花火と言われて想像するのはこちらの形ではないでしょうか。「スボ手」は膠(にかわ)で練った黒色火薬をワラスボ(稲藁)の上端につけたもので、西日本で普及していたものです。昔から稲作が盛んだった西日本だからこその作り方であり、線香花火の起源と言われています。そして関西からこの線香花火が伝わる際、関東地方では米作りが少なく、紙漉きが盛んだったため、紙で火薬を包むという代案ができました。そのため、「長手」は関東地方を中心に親しまれ、その後スタンダードな線香花火として全国に広まりました。
ところで、線香花火をなぜ「線香」花火と呼ぶのか、気になったことはありませんか?これは1700年代頃の江戸時代に「スボ手」の花火を、線香を立てる香炉に稲藁の取っ手部分を挿して鑑賞していたことに由来すると言います。「スボ手」の線香花火は300年以上形が変わっていない線香花火の原型なのです。下に向けた線香花火を眺める、というイメージは実は後からできた文化なのでした。
線香花火、特に「長手」の線香花火は繊細で、少し風が吹いたり揺らしてしまうと火球が落ちてしまいます。長く楽しむには、「角度」と「火をつける位置」が重要です。線香花火に火をつける時、そして火花が出ている間は、花火を地面に45度下へ傾けた状態がベスト。そして火を付ける位置を花火の先端にすることで、火球が落下しにくくなり、長く楽しめるといいます。一方で、「スボ手」の線香花火も45度は共通していますが、火先を上に向けて楽しみます。火の粉が30センチメートル四方に吹き出すので、体からできるだけ離し、風下に向けるとより安全です。
この「長手」と「スボ手」、どちらの線香花火も「玩具花火」(または「おもちゃ花火」、薬量15g以下のもの)の一種です。空に高く打ち上げられる花火は、打ち上げ花火(薬量15g以上)または「煙火」という種類になり、現在も全国的に、数は減少していますが花火製造所は各地に存在します。しかし、筒井時正玩具花火製造所を含め、玩具花火を製造しているところは、2021年現在で全国でも約20件程となっています。線香花火に限ると、国産の「長手」を作っているのは、現在、山梨県2カ所、愛知県、福岡県の4カ所のみです。(2021年8月現在) 伝統が途絶えかけた「スボ手」の線香花火と同じく、安価な外国産の花火の影響を受けて、やはり一度は途絶えかけます。そんな中で筒井時正玩具花火製造所は、隈本火工から受け継いだ技術で「スボ手」と同じく「長手」の生産も繋ぎ続けていました。その後、東京・浅草で100年以上玩具問屋を営む山縣商店と愛知県の三州火工が協力して「長手」の生産が始まるなどして、現在までに復活してきました。
小話① / 化学で解けた、線香花火の謎
余談になりますが、筒井さんの玩具花火研究所にも寄稿している九州大学工学部で航空宇宙工学を専門とする井上智博 准教授が2018年に発表した研究で、線香花火の謎が少し解けました。線香花火の「松葉模様」と言われるようなパチパチと連続した光は、火薬が燃えながら飛んでいるのではなく、火薬の成分の一つであるカリウム溶解塩が液滴として弾ける軌跡を見ているものなのです。スローモーションで撮られた映像では、液状になった火薬が火球から弾け、さらに細かい液滴へと弾けながら分岐する様子を見ることができます。一つのものが分裂を繰り返す、という現象は大きいものでは一般的(木や川が枝分かれする様子を想像すると分かりやすいかもしれません)ですが、水滴や液滴のような小さなものは一度分裂すると「安定」の状態になるため、分裂を繰り返すことは通常ありません。そのため、線香花火の先端である「火球」から液滴が飛び出し、10回も分裂を繰り返すことは、瞬間的な分裂としては大変珍しいことなのです。線香花火は、生活に身近なもの、昔からあるものにもかかわらず、謎の多いものだったのですね。今後も、井上博士は継続して金属火薬についての研究を行う予定だそうです。
また、玩具花火研究所では環境活動家の大岩根尚さんから、鹿児島県の薩摩硫黄島のジオパークの資源を使えないか、提案されていたそうです。薩摩硫黄島(さつまいおうじま)では硫黄が採れるそうですが、こちらも線香花火の原料の一つ。原料として最適ということで筒井さんの研究所と繋がりました。残念ながら、硫黄の大量採取が難しく商品化は厳しいということですが、島の観光としてワークショップなどをおこなっているそうです。玩具花火研究所ではこうして参加してくれている数々の研究者たち本人にコラムを執筆してもらっており、特に報酬などはありません。それでも「日本の人に線香花火が好きになってもらえれば」という想いを同じくして、資料提供をしてくれているそうです。
「届けること」「買うこと」「作ること」「遊ぶこと」 筒井さんが起こした変化
さて、ここから本題の筒井時正玩具花火製造所の「ものづくりの変化」を見ていきましょう。日本人だけでなく海外の人まで魅了してきた線香花火。しかし、その国内製造は様々な問題に直面しています。原料が入手できない、売れない、遊べる場所もない…。そんな中、筒井さんのパッケージ、場所、原料の確保といった活動から、変わってゆく現代の「ものづくり」が実感できます。つくりてとして考えなければいけないこと、そしてつかいてのことまで考えて生まれてきた、4つの変化を紹介します。
- パッケージデザインの変化
- 「選んでもらう」という売り方の変化
- 原料確保のために、米作りを始めた変化
- 花火で思いっきり遊べる宿を運営するという変化
この4点から、これからのものづくりを考えてみましょう。
【その1】 「花火の届け方」というデザインを変える
筒井時正玩具花火製造所でも、親戚の線香花火会社から職人や技術を引き継いだ当初、全く売れない、という状態が続いたそうです。3代目良太さんの奥さんである今日子さんは、職人の仕事に詳しかったわけではなく、ある日良太さんの作る線香花火を見た時に、自分がこれまで知っていた線香花火との違いに驚きました。こんなに素晴らしいものはなんとかせねば、と動き出した矢先に「九州ちくご元気計画」を知り、差別化として営業のしくみ全体をデザインする、という概念に出会います。デザインという形が無いものに対して対価を払う、という職人の世界では馴染みのないことに反対などもありましたが、今日子さんは「結果を出すしかない」とがむしゃらに進み、事業計画を作成し、そうして次々と新しい花火たちが生みだされました。
特に「九州ちくご元気計画」で出会ったなかにわデザインオフィスのデザイナー、中庭日出海さんと意気投合。国産の花火は安価な外国産の花火に価格で勝負ができないため、筒井さんは中庭さんと共にデザインで差別化をすることにしました。一口にデザインと言っても、パッケージデザインだけではなく、花火製造から小売という販路や商品構成の見直しもおこなっています。花火がお客さんの手元に届くときに、どのような見え方をしているのか、どんな場面で花火を使うのか、といったところを考え直したのです。筒井時正玩具花火製造所の花火の多くは問屋へ卸していたことで、販売時のディスプレイまで考えて製造はされていませんでした。例えば、紙の包装をしていたことで、お客さんの手元に届くまでに壊れていた、ということもあったそうです。そこで、お客さんの手元に届くまでに商品を守れるよう、箱型のパッケージに変えました。また、花火を購入する場面を考え、商品構成も変更します。自分で購入して気軽に楽しめる花火、「人へ贈る」こともできるようなギフト用のセット花火など、幅広い価格帯と商品を準備しました。特別な日と日常という「使う場面」を花火で考えた、新しいデザインでした。
2021年現在までに筒井時正玩具花火製造所では、様々なオリジナル花火を作り出しています。中でも、手作業で丁寧に包む線香花火の制作過程からインスピレーションを受けた「手で折りたたむ」パッケージは、2011年からロングセラー商品となっています。その他にも、紅白の線香花火を水引に見立てた「祝い線香花火」や、花火の筒に自由にお絵描きをして世界に一つだけの花火を作れる「えかきはなび」など、独特なアイデアを実現させています。ものづくりもやはり買ってもらわないことには続けられません。つかいてのお客さんへ届くまでを考えた、線香花火のパッケージの変化がありました。
そして花火が人の手に渡る、という最初の関門を越えたところで、次に花火を「やってみて」もらうことが重要です。しかし「花火をする」という遊びそのものが珍しくなってきた現代では、その「体験」が筒井さんの第2の課題となっていました。
【その2】 「選ぶこと」、その行為も含めて花火を楽しむことなんだ
昔は花火を一本一本選んで買っていた、ということを知っている人は少ないのではないでしょうか?
その文化を絶やさないため、みやま市の筒井時正玩具花火製造所では、駄菓子のようにずらっと並ぶ花火が並べて販売されています。このような販売の方法は、今日子さんが花火の「選ぶ楽しみ」という文化を継承しなくてはいけない、と考えたことから始まったそうです。昔は駄菓子屋さんで一本ずつ好きな花火を選ぶことができたものですが、現在はパッケージになった商品ばかりで、火を付けるのはどっちだっけ?と迷う子供も多いそうです。
今日子さんご本人は、小さな頃に近所のお姉さんと三輪車を漕いで、毎日のように駄菓子屋へ花火を買いに行っては遊んでいた記憶があるそうです。そのおかげで、嫁いできた時には全種類の花火が分かっていた、というお話も伺いました。子どもながら一生懸命選んで買った花火は強く記憶に残っているそうで、水色が好きだった今日子さんは「水色の火が出るはずと思って、水色の巻紙の花火を買ったら赤い火が出て、すごくがっかりしたのを今でも覚えている」といいます。このような思い出から「玩具花火のバラ売り」というアイデアが生まれました。ずらっとバラで並べられたカラフルな花火の中から、一つずつ好きなものを選んで火を付ける。そういった文化そのものを海外にも伝えて、後世に残していきたい、と今日子さんは考えているのです。
また、筒井時正玩具花火製造所では工場にショールームや花火ができる暗室を設置しており、その「文化」をそのまま体験してもらえるようになっています。お客さんがお店に訪れ、駄菓子屋さんで1本ずつ好きな花火を選んで気軽に楽しむ、という一連の流れまでワークショップで楽しんでもらえるようしたのです。「自分で選んで、遊んでみる」ことを大切にしたい、という筒井花火では、あえてパンフレットに火花の写真は載せません。お店に立つ店員さんにも、自分の目で遊んでみたものを、お客さんに伝えてほしいと考えています。
しかし、こうして花火を買ってもらえるようになっても花火をつくる「原料」がなければ生産はできません。筒井さんの「スボ手」の線香花火は原料の危機にも直面していました。
【その3】 もう材料がなくなってしまう! 迫られる変化
筒井時正玩具花火製造所の「ものづくり」には原料の確保という課題がありました。そして、「自分たちで作るしかない」ということに行き着いた筒井さん達は、米作りをはじめました。
なぜ米作りかと言うと、筒井さんの代表的な「スボ手」花火には、持ち手となるワラスボ(短くスボとも言います)が不可欠です。このスボが稲藁の芯からできているからなのです。昔は佐賀県の蚕用の箒を作っていた箒屋さんから原料を入手できていました。箒屋さんは藁の先端のみ使用し、長い節の部分は不要のため、筒井さんのところへ、という循環があったのです。しかし、時代が移り変わると共に養蚕の需要も減り、箒屋さんも閉業してしまいました。ものづくりの技術があっても、原料がなければものは作れません。
この現状をどうにかするため、筒井さんたちは2017年に米作りを始めました。近所のお米農家さんからもらえるのでは?と考えてしまいますが、「スボ手」の線香花火に適した長さの稲藁を入手するのは、米の品種改良などから難しくなっているそうです。機械で収穫すると藁は短くカットされて田んぼに漉き込まれてしまう上、台風の影響を受けにくくするために、稲の長さを短くする品種改良が進み、そもそも「スボ手」線香花火に十分な長さに育たないのです。十分な稲藁を確保するため、スボ手にあった米の品種を探したり、干し方、芯の抜き方などを研究したそうです。筒井さんの田んぼでは、長いまま藁を残して刈り取り、その藁を束にして数日間乾燥させます。円錐形の束がずらっと並ぶ光景は、現代ではあまり見ない風景ではないでしょうか。しっかりと乾燥させた後、藁を剥いていくと硬い芯が入っているので、その芯を1年かけて手作業で取り出します。こちらは老人ホームや障害者支援センターの方々の手で丁寧にされているそうです。そして「スボ手」の線香花火は乾燥した寒い冬の時期に一気に製造するのだそうです。なぜわざわざ冬に行うのかというと、火薬の原料に使う膠(にかわ)は動物性の糊のため、気温が高いと固まらなくなってしまうのです。
原料を自分たちで確保しなければ、この線香花火は途絶えてしまう。それは絶対に避けなければ、という筒井さんの強い使命感から、米作りは始まりました。
しかし原料の危機はワラスボに限らず、火薬の原料にも何度も訪れています。火薬の原料である、硝煙や硫黄も国産のものは入手が難しくなることが分かっており、なんとか自分たちで作れないものかと考えた筒井さんは、玩具花火研究所を立ち上げ、井上博士や大岩根博士といった研究者とのコラボレーションを始めました。九州大学にて航空宇宙工学を研究している井上智博 博士とは、共に世界で初めて線香花火の花火が枝分かれする瞬間を高速度カメラで鮮明にとらえることに成功、テレビなどにも取り上げられました。学術研究だと一般の人には理解が難しいものの、筒井さんの研究所で発信されているコラムはとても分かりやすく噛み砕いて、線香花火の科学的な分析が説明されています。
こうして花火を製造し、手に取ってもらえたとしても、第4の課題がありました。そもそもお客さんが家へ帰って花火をする「場所」が無い、ということが花火業界にとって深刻な問題だったのです。
【その4】 花火で思いっきり遊べる宿「川の家」
公園などの公共の場ではゴミや火の問題などから花火ができず、自宅でも広いスペースがなければ「家で花火をする」ということは難しい現代です。そこで、筒井時正玩具花火製造所は、思いっきり花火で遊べる宿「川の家(かわのいえ)」の運営も始めました。宿を始めることになったきっかけは、「都会の3割の子どもが花火をしたことがない」という統計を筒井さんご夫婦が目にしたことでした。日本の花火の良さも、外国産の花火と比べてみて初めて違いが分かります。その「やってみる」こと自体すらできない時代になっていることに気づき、花火をする場所の提供が必要だと考えました。そこで「思いっきり花火で遊べる場所を」というコンセプトで、宿のアメニティには花火がついてくる「川の家」を始めようと決めたそうです。
宿「川の家」はもともと、筒井さんのもとで花火職人をされている、松吉さんのご自宅でした。八女市黒木の川べりにある古民家が解体されると聞き、筒井さんご夫婦がどうしても引き取りたいとお願いします。その改修からオープンまでは、修繕工事の費用や食事提供、土砂災害危険区域に指定(現在は解除)されてしまうなど、様々な難題が立ちはだかりました。その解決には、「大工インレジデンス」の加藤潤さんや、「黒木たかっぽ」のこんにゃく作り名人、城さんなどの助けもあり、ゆっくりと解決へと進んでいきました。そして遂に、語りきれないほどの様々なストーリーが詰まった「川の家」は、筒井さんご夫婦の熱い気持ちが実り、構想から5年の月日が経った2020年夏、オープンが決定しました。
小話② / そもそも花火って?
ここで少し寄り道です。「線香花火」については紹介がありましたが、そもそも花火とは何なのでしょう?花火のもととなる火薬ができたのは、6世紀頃の中国だと言われています。当時は錬金術や錬丹術で製鉄のため高い温度が必要とされていたために開発、利用されていたそうです。有力な説では、中国・秦の始皇帝が北方からの侵略を阻むため、万里の長城で「狼煙」として硝石を使用したことが始まりと言われています。その硝石(硝酸カリウム)、煤、硫黄を混ぜた火薬を燃焼させると、ガスを発生させることから、次第に武器として利用されるようになりました。そして1543年、鉄砲とともに日本の種子島へ火薬の技術が伝わったと言われており、戦国時代には火縄銃などで活用されました。しかし、徳川幕府によって平安の世が訪れると、徳川政権は武器・弾薬の製造を厳しく取り締まり、火薬職人たちは仕事が無くなってしまいます。
そこで火薬職人たちは江戸へ行けばなんとかなる、と考えて東海道を上ったのではないかと言われています。堺から江戸へ東海道を上る道中、三河(現在の愛知県)で出店したのが「三河花火」、江戸で出店したのが「鍵屋」だという説です。また、三河は徳川家康の出身地だったため、火薬の技術を継承することが許されていた、という説もあります。同じく北前船という日本海側を廻っていた船に乗って、現在も花火文化が色濃く残る秋田の大曲、山形の酒田、新潟の片貝といった場所に火薬職人たちが移動したのではと推理する人もいます。また、日本で最初の花火大会は隅田川花火大会だと言われていますが、これは1732年の享保の大飢饉で亡くなった人々の鎮魂と疫病退散を願い、打ち上げられた花火だったのだそうです。
東京都公文書館 デジタルアーカイブ「東京名所之内両国橋大花火の真図」
変わりゆくものづくり
余談もありましたが、ここまで、筒井花火さんの「ものづくり」の変化についてお話しました。皆さんはどのような印象を持たれたでしょうか?つかいてである一人でも多くのお客さんに届けるためのパッケージデザインの変更、「選んで買える」という昔ながらの花火の「体験」をしてもらうための販売方法、思いっきり花火で遊べる宿 「川の家」の運営。そして、「原料の不足」という課題を打ち破った「藁を自家製で」という米作り。このような活動は、直接の花火製造ではなくても、筒井さんの「ものづくり」の一部です。人の生活が変化していくことと同じように、「ものづくり」の現場も、こうして今日も少しずつ変わっているのかもしれません。
そして、変わりゆく社会の中、筒井さんのように、原料からのものづくりを考え直す会社は他にもあります。福岡県久留米市の靴製造メーカー、ムーンスターは2021年から環境に配慮したリサイクル材を使うシリーズ「ROAMY」を販売開始、今後のものづくりのあり方を模索しています。さらに、宮崎県日之影町のわら細工たくぼでは筒井さんと同じく稲藁を使った、しめ縄の製造をおこなっていますが、「スボ手」線香花火と同じく、材料となる藁が不足しています。そこで数種類の稲を栽培、お米ではなくしめ縄のためだけに作っている品種もあるそうです。
このように、時代とともに採れるものや人の流れも変わってゆくと「昔ながら」の方法でできないことも多く出てきます。だからこそ「良いことも悪いことも、現状が未来永劫続くわけではない」ということを知っていることが、ものづくりの世界でも大切なことなのかも知れません。今回、このうなDIGTIONARYに取り組む間、ずっと頭の中に「諸行無常*1」という言葉が浮かんでいました。自分たちの生活スタイルが変わっていくということは「もの」が変化していくということでもあり、「ものづくり」も変わっていくということです。絶えず流転する世の中は「もの」と付き合っていくことで、この変化がより身近に感じられるようになるのかもしれません。色々な「ものづくり」がある中でコレ!といった正解はありませんが、うなぎの寝床はうなぎの寝床なりの方法で、ものづくりの考え方を模索してみたいと思います。
2021年8月記
*1・・・万物は常に変化して少しの間もとどまらないということ。
参考文献
筒井時正玩具花火製造所公式HP / 筒井時正玩具花火研究所 / 日本煙火協会HP / 花火よもやま話 / 線香花火研究の最前線 / ColorMeインタビュー記事 / HOTEL SOMEWHERE 花火を愉しむ宿 HOTEL in HOTEL vol.5「川の家」
この先どうありたいか?
農漁業、工芸、エンタメ、芸能業界なども同じような流れがあるのだと想像するのですが、分野を問わず従来の方法や商品・情報の流通構造がテクノロジーの進化によって多様になり、個人の考え方次第でそれを自由に選択できる環境が整ってきました。それと同時に、ある分野では高齢化、後継者不在、効率と機械化、品種改良、資源不足などにより、従来の方法を維持できなくなり良くも悪くも様々な影響が起きているのを目の当たりにします。つくりてはそのどちらにも対応しながら、これまでの技術を生かして自社で取り組む事と他者と協業することなどを取捨選択して現代の生活者に向けてモノを生み出しています。
筒井時正玩具花火製造所の取り組みは、前職からの繋がりで約10年前のパッケージリニューアルのあたりからずっと見てきました。商品力を磨き、情報発信・広報の基礎を固め、問屋流通一択ではなく小売店や直販の強化、開かれた拠点作りまでを数年かけて実現させ、足場を固めて次のチャレンジをしてきました。そして、直接的には関係なさそうな研究所、原料確保の農業、花火を楽しむ宿泊所作りまで広がっています。この10数年で筒井さん達なりの答えが形となって見えてきました。
分業して一つのことだけをしていればよかった時代、注文の品物を作っていればよかった時代から、一つのことだけ出来ても成り立たたなくなる時代へとどんどん移り変わっているように感じます。役割分担の構造が変わってしまったのだと思います。見方を変えれば、本気でやりたければ何でもやれる時代ともみてとれます。皆が皆変わればいいわけでもありませんしできるかどうかは別の話ですが、この先どうありたいか?を10数年前から真剣に考え、目の前のことをひとつずつ形にしてきた筒井時正玩具花火製造所の軌跡が一つの答えだと思います。
どんな答えが正しいかはわかりませんが、どうありたいかを問い行動することに尽きる気がします。みんなのどうありたいかが集まって地域文化として表出してくるのでしょうか。どうでしょうどうでしょう。他の取り組みも引き続き発掘していきたいと思います。
キュレーション 春口
さいごのおまけ話
色ではなく、形で楽しんでいた日本の花火。特に線香花火はシンプルで儚いイメージがピッタリです。その線香花火とは対照的な玩具花火といえば、爆竹。びっくりするほど派手な音と光で、耳栓をせずにその場に居合わせると、耳鳴りが残ってしまうくらいの威力をもっています。しかし、この爆竹も疫病退散を願って打ち上げられていた花火のルーツと似ていたりします。中国では新年を祝うおめでたい道具として使用されていたり、日本でも長崎県の精霊流しで爆竹を鳴らすことは有名ではないでしょうか。これは爆竹の大きな音で精霊船の通り道を清める、悪疫を祓うといった願いが込められているのだそうです。線香花火の儚げに火薬が爆ぜる様子も、爆竹の大きな音も、どこか特別な印象を人々に与えていたのかもしれません。
素朴な火花を楽しむ線香花火と、爆音でお清めをする爆竹。真逆ながらも共通点が見つかるような、不思議な日本の花火文化でした。
【うなDIGTIONARY】とは
うなぎの寝床が掘って掘って(調べて聞いて)得た情報や知識を、うなぎの寝床の視点を通しつつ記録していくものです。日々活動していく中で、商品やつくり手、産地、素材について調べたり、聞いたりすることで情報を得ていきます。ある情報を知ると、そこから別の情報を知るきっかけを発見したり、疑問が浮かんできたりします。そして、また調べて情報や知識を得ることができます。リサーチして得た情報は次へ次へと繋がっていきます。今後も深く深く掘り続けていきたいと思うので、手にした情報は随時更新していきたいと思います。この「うなDIGTIONARY」を通して、何かを掘り始めるきっかけを手にしてもらうことができれば幸いです。
* DIGTIONARYは、DIG(掘る)とDICTIONARY(辞書)を掛け合わせた造語です。
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