【産地コラボMONPE】 遠州コーデュロイストレッチ #2 / 産地の成り立ち “土地と人”

やわらかく、滑らかな手触り
静岡・遠州のコーデュロイストレッチMONPE

静岡県西部の遠州地域では、県内を流れる天竜川の豊かな水や、温暖な気候により、古くから綿栽培が盛んで、綿織物も発展を遂げてきました。中でも、天竜川の東側地域(磐田市・掛川市など)では、厚手の織物が発展し、現在では国内唯一のコーデュロイの産地として95%以上のシェアを誇ります。

コーデュロイとはどんな特徴を持った生地なのか、そしてどの地域でどんな背景から生まれてきた生地なのかを見ていきたいと思います。今度は産地の成り立ちについて見ていきましょう。

【#1 コーデュロイはどんな生地?】

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“遠州織物” と “コーデュロイ”

遠州地域とは、静岡県西部の浜松市、磐田市・掛川市・袋井市・周智郡を指します。その地域でつくられる織物は遠州織物と呼ばれ、国内・海外の様々なアパレルブランドで使われています。遠州織物の特徴は、ひとつの特徴をもつのではなく、それぞれの織元が特徴のある生地を織る”多様性”があることです。さらに、遠州地域を南北に流れる河川・天竜川を境に、西の浜松地域、東の磐田地域と東西それぞれに異なる発展の歴史があります。東の磐田地域は、江戸時代から厚手織物の製織技術をもっていたことからコーデュロイ産地になった一方、西の浜松地域は薄手織物の製織技術が集まっていたためにシャツ産地へと発展を遂げました。 

 

天竜川を境に異なる歴史をもつ遠州織物

現在、遠州織物には遠州織物工業協同組合と天龍社織物工業協同組合があります。浜松市を中心とした遠州織物工業協同組合は、綿を中心に多種多様な素材でメンズシャツ地や細番手高密度織物、からみ織(レノクロス)などの生地をつくっています。 旧福田町(現在の磐田市・掛川市・袋井市・周智郡)を中心とする天龍社織物工業協同組合は、別珍・コール天のほか、麻・ウールなどをつかったドビー・ジャガード織物生地をつくっています。この遠州織物の中の2つの産地の成り立ちをそれぞれ見ていきましょう。

 

遠州産地 :
動力織機の発明、広幅織への転換、日本初の工業組合により織物産地へ成長
 

静岡県西部に位置する遠州地域は、日照時間が長く、冬でも温暖な気候天竜川の豊かな水のおかげで、古くから綿栽培が盛んな地域でした。江戸時代には農家の副業として綿織物が織られるようになり、愛知県の三河、大阪府の泉州と並ぶ日本三大綿織物産地の一つに発展しました。 

明治時代になると、機械によるものづくりが発展します。1884年に紡績工場「遠州紡績会社」が設立され、1896年には遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市)で生まれ育った豊田佐吉(トヨタグループの創始者)が日本で最初の動力織機を発明し、それまで人力だった織機を動力化、自動化していくなかで綿織物の生産性は飛躍的に拡大していきました。さらに1909年にはスズキ株式会社の創始者である鈴木道雄が、前身である鈴木式織機製作所を静岡県浜名郡天神町村(現材の浜松市天神町)で創業し、先染横縞柄模様を織ることができる二挺杼足踏織機(にちょうひあしぶみしょっき)を完成させました。 綿の栽培、織物が盛んな遠州地域に生まれ育った二人は、ともに大工を目指しながらも戦時中という環境のなか、“人の役にたつことを”という想いから織機を改善し発展させながら機械化を完成させていきました。その後、繊維産業から自動車産業へと時代が変化していくなかで、自動二輪車・自動四輪車の開発に取組んでいきました。 

大正時代、第一次世界大戦の影響により日本政府は国内向けの小幅織物から輸出用の広幅織物への転換を呼びかけます。遠州地域では日本で最初の工業組合として、1926年に広幅の織物業者組合の「永久社」が設立されました。この組合により、織りは各社で行い、その前後の原材料調達、染色、梱包などを一緒に行うことで品質の統一を図り、スケールメリットを得ることができるようになりました。その結果、輸出量が増え繊維産業は浜松の基幹産業として成長し、全国の織物産地において大きなシェアを占めるようになりました。 

この産地の特徴は、織布業だけでなく、染色加工工業繊維機械工業紡績業などの繊維関連産業が産地内に存在する総合的な綿織産地であることと、生地を専門に扱う商社である「産元」から仕事を請けて工賃をもらう「賃織」のスタイルで発展してきたことです。1件1件の機屋の規模は小さいながらも、細かなオーダーにも対応できる高い技術をもっていた機屋は、その後、この構造から脱するために自社の強みを活かしたオリジナル生地を織るようになります。小さな織元がそれぞれの技術を磨いてきたことにより、広幅織のシャトル織機・レピア織機がたくさんもち、様々な素材や技術をつかった多様性のある織物産地となりました。 

1947年、戦後の復興のために設立された静岡県織物工業協同組合は、翌年には4つの組合に分離改組されました。1つが、遠州織物工業協同組合であり、綿・スフの織物業者を中心に組織化され、戦前の永久社の流れを受け継ぎました。そして、天龍社織物工業協同組合は磐田郡福田町を中心とした別珍コール天の業者が中心になり、戦前の天龍社の流れを受け継ぎました。
また、残りの2つの組合の1つである静岡県絹人絹織物工業協同組合は、戦前から小巾業者中心で、戦時中には絹・人絹織物が多かったが、戦後は綿・スフの小巾業者が中心であったため、遠州小巾織物協同組合に改組しました。遠州毛織工業協同組合は広巾毛織物業者を中心に組織化されました。
 

天龍社産地 :
帆布と足袋底。厚地の生地を織る技術がコーデュロイづくりの基盤になった

天龍社産地の中心となった磐田郡福田町は、太田川が遠州灘に注ぐ河口に位置し、遠州灘にのぞむ福田港が良港として連絡地として栄えた半農半漁を営む地域でした。1889年に東海道線が通ると、港町としての価値が激減し、漁業の不漁になり衰退し、代わりに織物業が盛んになっていきました。 

遠州のコーデュロイ製造は、磐田市の織物産業の歴史から始まります。1600年代、遠州国磐田郡(現・磐田市)には掛塚湊(みなと)や福田湊などの天然の港があり、舟による交通や輸送で栄えました。帆船の集積地であったことから船の帆などに用いる厚地の平織物である帆布(はんぷ)を製織する機屋が存在し、織物産業が形成されていきました。1831年、磐田郡福田村(現・磐田市福田)の庄屋・寺田彦左衛門が、大和地方を旅した際に目にした雲斎織(うんさいおり)(足袋底などに用いる丈夫な斜文織の布)を気に入り、その技術を移入したことにより福田地域の製織技術は発展します。その後1896年、山名郡 福島村(現・磐田市福田)の寺田太助・寺田秀次郎が、当時下駄の鼻緒の材料として人気だった輸入コーデュロイの研究を重ね、製織に成功し、その技術は現在の袋井市、掛川市へと広まり、現在の福田地域を中心とするコーデュロイ産地が形成されました。先人たちにより、帆布や雲斎織など厚地を織る技術が整っていたことによりコーデュロイ産業が興りました。 

大正時代に綿布の輸出が盛んになると、コーデュロイも米国や西欧、中国へと輸出され産業は成長していきました。国内においても、洋服需要が高まり東京・大阪という二大消費地の中間に位置する地の利を活かし、遠州地域は日本一のコーデュロイ産地となりました。 しかし、1970年代頃から発展途上国の安価なコ ーデュロイの輸出が増加すると、国産コー デュロイの需要は減退します。さらに、米国による日本製繊維製品の輸入規制を受け、コーデュロイ産業から他産業へと事業転換する事業者が増え、産業規模は縮小していきました。近年は、海外製品との価格競争にもさらされ、1973(昭和48)年のピ ーク時には1,620社を誇った天龍社織物工業協同組合の組合員数は、2015(平成27)年には85社 にまで減少しました。製造工程に分業制を敷くコーデュロイ産業においては、極端に事業者が減少している工程もあり、仕上げ工程の毛焼きを専門で担う事業者は 1 社にまで減少。隆盛を極めた地場産業は危機的状況に陥っています。それでも、コーデュロイ生地の国内生産量の約90%が遠州の福田地域でつくられており、唯一の国産コーデュロイ産地です。 

 

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【おまけ】 コーデュロイの誕生と歴史 

別珍、コーデュロイは、「ファスチアン」と呼ばれるやや厚地で毛羽のある織物の一種です。その名前の起源は、紀元前200年の古代エジプトの都市フスタートで最初に織られたため、その街にちなんで名づけられたそうです。中世にイタリアの商人が西ヨーロッパの貴族に生地を紹介し普及していきましたが、その生地にはまだ畝はありませんでした。

コーデュロイという名前は、房状の列状のパターンを指す「コード」という言葉と、フスティアン生地に由来しイギリスで使用されているコースウール生地である「デュロイ」の複合語であると考えられています。フスティアンからコーデュロイへの移行は徐々に起こりました。オックスフォード英語辞典によると、コーデュロイという言葉が最初に使用された記録は1774年だそうです。現在の畝のあるコーデュロイとして認識されているものは、18世紀後半にイギリスのマンチェスターで産業革命中のファクトリーウェアとして登場しました。その耐摩耗性により工場での着用に理想的であったため、労働者階級の生地でした。 

その後衰退しますが、1960年代のカウンターカルチャーのファッション生地として復活しました。ビートルズなどにより1970年代に人気がピークに達し、反体制の象徴として着用されました。ウディ・アレン、ボブ・ディラン、パブロ・ピカソ、ウェス・アンダーソンなど、有名なミュージシャン、アーティスト、監督に愛されて着用されていきました。現在でもコーデュロイは一部の地域では「マンチェスター」として知られています。日本では、「cord」+「天鵞絨(てんがじゅう)(ビロードの和名)」が転じて 「コール天」とも呼ばれています。 

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