【研究まにまに】パラカとアロハと移民の歴史(2)
アロハと郷愁。
前回はパラカと絣の関係についてお伝えしました。プランテーション労働者の作業着が発祥のパラカシャツに対して、アロハシャツは違った始まり方をしています。実際のところ、アロハシャツの発祥については諸説あり、ひとつに定まってはいません。しかし複数の文献を突き合わせてみると、それらの説はいずれも「1920~30年代に着物地や和柄のシャツの製作が始まっている」という点で共通しています。
例えばアロハシャツの大家であるデール・ホープの著書では「1920年代初めにある学生が母親の経営する仕立屋に、日本の木綿のユカタ地でシャツをつくらせ、大学で注文を取った」「1930年代初頭に有名なハリウッドスター、ジョン・バリモアが店に来て、色鮮やかなキモノ地のシャツを注文していった」などが紹介されています。
一方ジョイス・チネンは「1930年代以降に個人の旅行客が、日系の子ども達が着ていた着物地をはぎ合わせたシャツを見本に、日系の仕立屋『ムサシヤ』などに注文した」と説明しています。この「ムサシヤ・ショーテン」は、もっとも早い時期から「和柄」の生地を使ったシャツを仕立て、1933年に「アロハシャツ」という言葉を初めて新聞広告で使ったとされる店です。
このムサシヤが仕立てたシャツが、1936年に「アロハシャツ」として商標登録されます。申請者は洋品店キング・スミスの経営者、エラリー・チャン。彼はビーチボーイ達が旅行者を仕立屋に案内するのを見て、お土産にできるような特別なシャツの製造販売を思い立ったのです。ハワイの若者のカラフルな服への愛好と、島での思い出を持ち帰りたいという旅行者の思いとが調和して、ハワイの服装様式は大きく変わっていきました。これ以降、ハワイの観光地化に伴い、アロハシャツはお土産物として発展していきます。
いずれの理由にせよ、日本の移民と着物が関わっていることは間違いないわけですが、ハワイ内で仕立てるだけではなく、日本での生地製作・輸出も盛んだったようです。とりわけ、友禅をはじめ染織の中心地である京都や大阪は、戦時中を除きアロハシャツの黎明期から最盛期を支えた重要なテキスタイル産地でした。パイナップル模様などのトロピカルな柄も、日本で作られていたようです。日光東照宮や天橋立が描かれた、アロハシャツも残っていますが、これらは日系移民の郷愁とともに生まれた柄ともいえるでしょう。
パラカのように絣が直接関わっているわけではありませんが、初期のアロハシャツに絣地のものもあったであろうことは推測可能です。うなぎの寝床の久留米絣アロハシャツの柄は、どーんとした大柄から、パラカを彷彿とさせる格子柄までご用意しています。ぜひご覧になりにいらして下さい。岡本
《本日の参考文献》
Chinen, Joyce N. The historical development of the garment industry in Hawaii, 1986.
小林亨一・監修『Land of ALoha』朝日新聞社、2010年。
『Aloha Shirt The True Story アロハシャツの真実』ワールド・ムック314、2001年。
海外移住資料館「ヨコハマ&ハワイ歴史展示 ~ アロハシャツと日本人移民の歴史 ~」