【2000字コラム 渡邊令】久留米絣の織元シリーズ ⑶ 日本の近代史が見えてくる@藍染絣工房 山村健 / “Kurume kasuri” weavers’ interview series 3: Takeshi Yamamura’s Indigo Kasuri Atelier
【2000字コラム 渡邊令】久留米絣の織元シリーズ ⑶ 日本の近代史が見えてくる@藍染絣工房 山村健 / “Kurume kasuri” weavers’ interview series 3: Takeshi Yamamura’s Indigo Kasuri Atelier
4代目の山村健さん。ご自身のこれまで、そしてファミリーヒストリーについて語ってくださいました。
Mr. Takeshi Yamamura, speaking about his life and his family history, a textile kasuri family as a forth generation.
時代の波を乗り越え、行き着いた
「天然藍染手織り」という哲学
ジェットコースターのような久留米絣の歴史。乗りこなしてきた織元たち。
200年の歴史がある、九州・筑後地域の織物「久留米絣」。今回、織元さんにインタビューをさせて頂いた中では、明治創業の織元が多く、長いところでは5代に渡るファミリーヒストリーをお伺いしました。明治から平成にかけての日本は、まさに激動の150年だったと思います。特に繊維産業にとってはジェットコースターのような道のりで、「富岡製糸場」に代表される、明治の開国による繊維産業の急速な発達があったと思ったら、日中戦争・第二次世界大戦に突入し、1938年頃から糸や布の生産が厳しく統制されるようになります。現在残っている織元も、ほとんどが戦時中の10数年は布作りができず、他の生活の糧を探さざるをえなかったのです。そして戦後、1950年からの朝鮮戦争による特需と1975年頃までの高度経済成長で、繊維産業はいわゆる「ガチャマン景気(ガチャンと織れば万の金)」で再び成長し、機械化が進みますが、アメリカ文化が入ってきたことで、着物から洋服へとファッションが変化していき、昔ながらの反物幅の久留米絣は需要が減る一方です。
今回、藍染絣工房の4代目・山村健さん(66歳)に、織元としてのこれまでの足跡を伺っていると、そんな日本の近代史と久留米絣の歴史も、密接につながっていることが実感できました。明治24年に創業し戦前は大きく発展したそうですが、3代目の山村衛さん(93歳)が10代の頃に戦争が始まり、生産ができなくなります。しかも衛さんは結核を患ってしまい、戦後に久留米絣の織元が次々生産を開始する中、遅れをとって1951年に再スタートを切ります。健さんは、そんな復興のさなかの1950年に長男として生まれ、継ぐのを前提に育ちました。小さい頃から「英才教育」を受け、中学生の頃には一通りの工程ができるようになったそうで、高校卒業と同時に家業に入ります。
化学染料から藍染へ。究めていった先に見えたものとは。
今は天然藍染の手織りしかされていない山村さんですが、昭和30年代(1955年〜)、久留米絣は産業化・機械化の真っ只中。父・衛さんも、化学染料を導入したり、機械織機を4台購入したものの人材不足で手織りに戻るなど、時代の流れに合わせて試行錯誤してこられました。しかし1975年以降、ガチャマン景気に陰りが見えはじめ、絣の生産量は落ちていきます。久留米絣の織元は作るだけで、売るのは問屋さんの仕事。当時はいかに問屋さんと仲良くして、注文をもらえるかというのが、織元が生き残る唯一の方法だったため、注文量が減って価格が落ちていく中、なす術のない織元も多かったと聞きます。その中で4代目の健さんは、天然藍染の手織りにこだわるという、独自の道を進み始めます。工房では化学染料のみだったため、藍染は外の染屋さんに頼んでいましたが、昔の藍染はどこも品質が悪かったそうです。インディゴピュアという藍色の化学染料を混ぜているところも多く、すぐに色落ちしました。最初はそれが当たり前だと思っていたそうですが、本藍の作品を見たり、藍染の工程を見るようになって、少しずつ目が肥えていき、職人気質の健さんは最終的に自分で藍染を始めます。人間国宝になった松枝玉紀さんに基礎を教わり、独自に技術を身につけていきました。
しかし当時、問屋さんは藍染も化学染料もほぼ同じ値段でしか買ってくれず、手間がかかる割には利にならなかったといいます。しかし、そこで化学染料を混ぜたり、工程を雑にして値段を落とすのではなく、健さんはより手の込んだ複雑な絣を作り始めます。当然、値段も上げましたが、そうすると問屋さんからの注文がどんどん減っていきます。問屋さんとの商売を守ってきた父の衛さんからは文句を言われ、売り上げもどんどん落ちていく厳しい時期もあったそうですが、それでも「無理して売らんでもよかろうもん」といって頑として方針は変えなかったのです。そして昭和60年代(1985年〜)になると、化学染料を完全に止めて、天然藍染の手織りに一本化します。
人間の手でしか作れないものの価値。引き継いでいくべき技術。
今、天然藍染手織りの絣は、化学染料機械織りの絣に比べると、当然値段も数倍します。なかなか洋服やもんぺにするにはハードルの高い織物です。それでもその柄の美しさと色合いは、現代人が忘れてしまっていいものとは思えません。そんな思いから、今年の「もんぺ博覧会」では、父・健さんから藍染めを引き継ぎながら、未来に向けて生き残り方を模索している、5代目の山村健介さん(32歳)が染めた「藍染手織りもんぺ」もラインアップに加わっています。
機械化・効率化していって売れるものを作るというのは、現代の経済社会においては避けて通れない道ですが、同時に「人間の手でしか作れないもの」は価値を増していくとも考えられます。多い時は300軒あった久留米絣の織元も、今は30軒ほど。みんな同じ時代の波を乗り越えながら、それぞれの信念を持って残ってきた「ツワモノたち」です。これからも時代は刻々と変化していくでしょう。モノが溢れる時代の中、どんな価値基準で何を守っていきたいのか、決めていくのは使い手の私たちでもあるということが身にしみたインタビューでした。渡邊∈(゜◎゜)∋ ウナー
藍染の絣模様で立体を表現する
The art of indigo kasuri textile
手織りで柄合わせをしながら、丁寧に織っていく
All of their textile is still hand woven
藍の苗
baby indigo
藍染の原料、すくも(右)。乾燥した藍の葉を発酵させたもの。
“Sukumo”: fermented indigo leaf which becomes the material for dye
絣は全て糸の先染めから。このようにして図案をおこす。
kasuri is done by ikat technique, so all the yarn is tie-dyed, based on this design
5代目の山村健介さんは、藍染の新しい可能性にも挑戦している
Kensuke Yamamura, the fifth generation is now doing new projects for indigo dye
織る前のくくった糸。白い部分が模様になっていく。
The tie-dyed yarn before weaving. The white part becomes the pattern.
藍甕とともに
Mr. Takeshi Yamamura with his indigo dye pots
藍染絣工房 山村健
Takeshi Yamamura, Indigo Kasuri Atelier
美しく染められたくくり糸
Tie-dyed yarn in beautiful indigo color