【2000字コラム 渡邊令】九州と海の道:日明貿易の痕跡から考える
日本と大陸はつながっている。
「遣明船」と港の痕跡から思いを馳せる、モノと情報の交易
航海の重要な拠点でもあった長崎県平戸市の川内峠からの望む海。
伝統工芸を紐解くとアジアに行き着く
交易の窓口だった九州目線で調べていきたい
日本の工芸技術のルーツを一つ一つ紐解いていくと、大抵アジアに行き着くことが多いです。久留米絣も日本での歴史は18世紀後半からで、元々はikat(語源はインドネシア語で「縛る」だと言われている)というインド発祥の技法です。佐賀鍋島藩の木綿の絨毯である「鍋島緞通」も中国やアジアの絨毯技術がルーツで、江戸時代になって日本独自に発展したもの。楠(くすのき)のエキスの結晶で、天然の防虫剤として古来より使われてきた「樟脳」(自然素材のダンスにゴン!です)。日本に残る最古の樟脳工場「内野樟脳(福岡県みやま市)」の商品をうなぎの寝床でも取り扱っていますが、先日大勢で来てくれた香港のお客さんが、香港でも楠をタンスの防虫に使うと話していらしたそうです。こうした自然の活用に関する知恵や技術などの「情報」は、モノの交易とともに広がり、共有されていったのでしょう。その情報とモノの伝達の流れと歴史は、一部の研究者の方々によって解明されていっている部分だと思いますが、私たちも九州筑後に主観を置きながら、もっとそのルーツの部分も調べて知っていく必要があると思っています。特に九州は5〜6世紀より中国大陸・朝鮮との交易の窓口であり、その利潤によって大きな力を持っていた地域。八女も、有明海を通じた朝鮮との交易によって力を持ち北部九州を治めたといわれる筑紫君磐井(ちくしのきみのいわい)が拠点にした土地であり、6世紀前半に作られたと言われる岩戸山古墳はその磐井のお墓。九州北部では最大規模の前方後円墳です。現代では緑に覆われたただの巨大な丘ですが、裏には壮大なドラマが潜んでいるのです(岩戸山古墳の話はまた別のコラムで)。
遣明船と日中航路について知るため、九州シルクロード協会の勉強会へ
北部九州の港と航海神の歴史が面白い!
九州にどのように大陸からモノと情報が伝わってきたのかを学ぶため、先月「九州シルクロード協会」が主催する勉強会にお邪魔してきました。九州大学の伊藤幸司准教授による講義で、題目は「東アジア海域における日中航路」。主に15〜16世紀の日明貿易を研究されており、航海技術と九州北部の様々な港に残る交易の痕跡のお話が興味深かったです。日本に残る技術は、7〜9世紀の遣唐使や10〜13世紀の日宋貿易によって中国から入ってきたものがほとんどで、遣明使(日明貿易)の時代はむしろ日本から中国へ工芸を輸出していたそうです(逆に中国からは主に絹を輸入)。遣明船は、外交儀礼としての役割と同時に、貿易利潤によって巨万の富を得ることができるという商売の側面も強かったそうで、船に乗り込んだのは外交官としての役割を果たした禅宗のお坊さんたち、そして博多や堺の商人たちなど、一隻で150人にも及んだとのこと。室町幕府公認で、堂々と国際貿易ができる千載一遇のチャンスだったのです。禅僧たちによって記された、日明貿易のマニュアル本ともいえる日記『入明記』には、そのルートが詳細に残されています。1539年に出発した遣明船の航海スケジュールはこちら:志賀島(福岡)3/17発→的山大島(長崎)3/22発→平戸(長崎)3/24発→河内浦(長崎)3/30発→奈留(長崎)4/19発→温州近海(中国)5/2着→昌国(中国)5/7着→定海港(中国)5/16着→寧波(中国)5/22着。他の遣明船のルート見てみても、九州では博多・志賀島をスタート地点として、呼子〜平戸〜五島列島などの港や島々を拠点としながら、何ヶ月もかけて中国へと向かったことが分かります。これらの港には航海の痕跡が今でも残されていて、例えば船の上の必需品でもある飲料水を得るため、港のあちこちに今でも井戸が多く残っていたり、危険な航海の安全を祈願するために、航海神の痕跡が多かったり。前述の『入明記』の中でも、櫛田神社・筥崎宮・住吉神社(福岡の神社スリートップ)をはじめ、赤間関八幡(山口)、志賀海神社(福岡)、平戸七郎殿(長崎)など各地の航海神に必ず奉納していたことが記されているそうです。これらの航海神(例えば招宝七郎)も元々は中国で別の神様だった存在が、日本に入ってきたときに航海神として崇められるようになったりと、モノだけではなく神様までもが輸入され、日本化されたというのはとても面白い点だと思います。
潮の流れと季節風に身を委ねる航海
日本と中国の境界線は船乗りの身体感覚
また当時の船にはエンジンはついていないので、航海は全て潮の流れと風まかせ。港に何ヶ月も停泊しながら、季節風が吹いてくれるまで待ち続けるということも良くあったそうです。中国から戻って来る際には、「ハマセ」と呼ばれる日本へ帰してくれる季節風に乗らないと漂流してしまうため、適切なときに適切な風に乗るというのは、まさに死活問題だったわけです。現代のように飛行機に乗って気づいたら到着しているという時代とは違い、大変な思いをしながら航海をするということは、海で世界がつながっているということが身体感覚で分かるのではないかという気がします。果たして当時の人たちには「国境」という意識はあったのだろうか・・・と思いを馳せていたら、講義の中で「支日塩界」という言葉が出てきました。当時の船乗りたちの間では、中国へ近づくに連れて水が濁り始める地点があるとの認識があり、そこが海の上での日本と中国の境界線と捉えられていたとのこと。「海外との交易」という言葉には、己と他者という対立概念がすでに含まれていますが、その輪郭線は長い交流の歴史の中で醸成されていったものなんだろうなと、当時の記録から垣間見ることができました。渡邊
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九州シルクロード協会が発行している冊子
岩戸山古墳のエキスパート、大塚さん。「ここからの眺めが一番」と。改めて話を伺いに行きたい。