海外生まれ、静岡育ち。土地に根ざした「遠州コーデュロイ」

このコラムは「遠州コーデュロイMONPE(カネタ織物福田織物)」に関連した特集記事の後編です。
前編はこちら

海の向こうの「コーデュロイ」づくり
どうして「静岡」にあるの?

ヨーロッパを起源とするコーデュロイ。しかし、その産地が静岡にもあり、一般的には知られていない数多くの工程を経て生み出されていることを前編でご紹介してきました。

さて、その静岡・遠州のコーデュロイはどのようにして育ったのでしょうか。そこには、海外からの単なる移植ではなく、土地に根ざしたものづくりの背景がありました。

大きく4つの要素から紐解いてみようと思います。
① 土地性 : 織物づくりに適した自然環境
② 技術  : 厚手織物産地としての土壌
③ 発想  : 人気な輸入生地の独自開発
④ 資源  : 豊富な水資源が支えるものづくり

キーワードは、「コール天」。そもそも日本のコーデュロイは「コール天」として親しまれ、独自に発展して現在に至ります。生まれは海外でも日本で育まれたコール天は、遠州産地の文化なのです。

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① 土地性 : 織物づくりに適した気候風土

– 日光と水。綿作から織物へ –

国産コーデュロイ「コール天」がどうしてできたのか?まずはその土壌となる遠州産地についてです。

静岡県西部に位置する遠州地域は、日照時間が長く冬でも温暖な気候であり、天竜川や南アルプスを由来とする豊かな水資源があったことから、綿花栽培に適した地域で古くから盛んに取り組まれていたと言われています。

江戸時代には農家の副業として綿織物が織られ、三河(愛知)、泉州(大阪)と並ぶ日本三大綿織物産地の一つにも数えられています。

明治時代になると、今まで人力だった織物づくりが機械化*されるようになり、綿織物の生産性と技術力は飛躍的に拡大。天竜川の西側(浜松市周辺)はシャツ地などに使われる細番手の薄手織物、東側(磐田市・掛川市周辺)はコーデュロイなどの厚手織物と、川を境に異なる種類の綿織物の生産が発展しました。

*遠州産地と「自動車産業」

遠州産地の発展にとって、切っても切り離せないのが「自動車産業」です。のちの日本を代表する自動車メーカーは、織物づくりの機械化と織物産地としての遠州地域の発展に深く関わっています。

古くから遠州地域では、農閑期の副業として手織木綿を織ることが慣わしとなっていました。手機での織物づくりは、一反(約12m:着物一着をつくるのに必要な長さ)の木綿を織るのに多くの労力と時間を要します(単純な無地や縞で2日〜1週間程度かかるそうです)。これを動力化して今までよりも速く、たくさん織り上げ、安く木綿を手に入れられる様になれば世の為になると考えた地域の若者たちは、織機の動力化を試みました。

1884年には豊田佐吉(トヨタ 創始者)が日本で最初の動力織機を発明。さらに1912年には鈴木道雄(スズキ 創始者)も動力織機を製作。織物が盛んな遠州地域に生まれ育った二人は、ともに大工を目指しながらも戦時中という環境のなか、「人の役にたつことを」という想いから織機を改善し発展させながら機械化を成し遂げました。

動力織機を開発したトヨタ・スズキなどは、その機構を自動車開発にも転用。織物産地を発展させた技術は、現在の自動車産業へとつながっていきます。

 

② 技術 : 厚手織物産地としての土壌

– 港町で栄えた船の「帆」づくりから発展 –

それでは、どうして天竜川の東側の地域でコーデュロイが発展したのでしょうか。

1600年代、遠州国磐田郡(現・磐田市)には掛塚湊(みなと)や福田湊などの天然の港があり、舟による交通や輸送で栄える「港町」でした。帆船の集積地であったことから船の帆などに用いる「帆布(はんぷ)」を製造する機屋が存在し、織物産業が形成されていきました。

強度や耐久性を要する帆布づくりがあったことから、高密度の厚地織物をつくる技術が発達していました。こうした産地の技術背景があったからこそ、同じ高密度の厚地生地であるコーデュロイに技術参入しやすかったと考えることができます。

 

③ 発想 : 人気な輸入生地の独自開発

– 自力でコーデュロイを国産化。真似から始めて一大産地へ –

遠州コーデュロイの始まりは、明治時代に遡ります。その当時、輸入品として国内に入ってきたコーデュロイは「コール天*」と呼ばれ、下駄の鼻緒の生地として大変人気だったそうです。

そのことに目をつけた福田出身の寺田純平は、輸入生地を見本として国産のコーデュロイの開発を目指します。協力者を仰ぎながら研究に勤しみ、1895年頃にはその製造方法を確立。のちにコール天を使った「鬼足袋(おにたび)」で全国に名を馳せ、急速な発展を遂げました。現在では国内の約95%のコーデュロイ(コール天)を遠州産地で生産しています。

*コール天
コーデュロイの和名。畝織を示す「Cord」と、ベルベットの和名「天鵞絨(てんがじゅう)」の言葉の組み合わせが由来と言われている。天鵞絨は中国語で「白鳥の羽毛のような手触りの織物」を意味する。

 

④ 資源 : 豊富な「水」が支えるものづくり

– 豊富な水で揉み洗う、ここにしかない加工現場 –

前編でもご紹介した加工現場の一つに、豊富な水を使った「揉み洗い」があります。コーデュロイの生産はもちろん日本だけでなく、海外(今の主要な生産地は中国)でも行われていますが、この工程は日本全国・世界中見ても例のない加工方法なのだそうです。

どうしてここにしかないのか?その一つの理由は「資源」にあると思います。①土地性で書いたように、遠州地域は天竜川や南アルプスからの雪解け水によって、綺麗な真水が豊富に存在しています。日本では普通に感じてしまうことも多いかもしれませんが、このように豊富な水資源があることは海外からの視点で見れば貴重なことです。

当たり前ではない「資源」の存在が、水を贅沢に使う揉み洗いの工程が生まれた一因となっている。そう考えることができそうです。

 

独自の文化で育まれた、遠州コーデュロイ

海外から伝わってきたコーデュロイ。しかし、それが日本・遠州という地域で根付いたのには、気候風土や、技術背景、その土地の人の発想、自然資源が深く関わっています。

生き物は環境が変わったとき、それぞれの環境に応じて常に変化しながら脈々とつながり続けてきました。同じように日本のコーデュロイも、遠州という土地に根ざしながら時間をかけて独自の変化をしてきたのだろうと思います。

日本のコーデュロイ「コール天」。それを海外のものと別軸で派生した「独自の文化」と捉えることで、見えてくるものがあるように思います。

 

「コール天」という産地の誇り

実際に現地に行ったとき、産地の人はコーデュロイのことを「コール天」と呼んでいました。それは海外の「コーデュロイ」と日本の「コール天」を別のものとして捉える姿勢のように思います。産地にとって何を大切にしているのか。呼び名一つですが、そうした細かな部分に産地の誇りのようなものを感じました。

コーデュロイの生まれは海外にありますが、それはそのまま移り渡ったものではなく、「コール天」として日本独自に発展してきました。今では遠州にしか残っていない、そもそも遠州にしか存在しない設備が数多くあり、地の利を活かした先人たちの知恵と、美しさ・風合いのために惜しまぬ手間隙が詰まっています。そこに言葉にならぬ価値があるように思います。

一方で、その文化を残し続けることの難しさに直面しているのも事実です。
水洗いや毛焼などの加工を行うことができる工場は、磐田産業1社のみ。パイルをカットするカッチングも、取材させていただいたカネタカ石田を含め、残り3社。工程の一つでもなくなれば、国産コーデュロイの生産はできなくなってしまいます。

産地の方々は真剣にこの状況と向き合っていました。
取材中、産地の機屋さん、加工屋さん、販売店さん、私たちうなぎの寝床とで話す時間がありました。担う役割は違いつつ、それぞれができることをやりながら、あれこれと悩みながら、膝を突き合わせて話をしていた姿が印象に残っています。

その上で、我々も何ができるのか。考え続けていますが、まずはイチからこの遠州コーデュロイの存在を伝えていくところをやるしかないと思っています。

「静岡・遠州」という地で国産のコーデュロイが作られていること。
海外製とは別軸の「独自の文化」で発展してきたこと。
MONPEを通してこのことを知ってもらえたら嬉しいです。

荻野

 

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【こばなし】
そもそも「コーデュロイ」ってなんだろう?

Photo by Dorothea Lange(出典:THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY

わき道に外れますが、そもそも「コーデュロイ」とはナニモノなのでしょうか。もちろん生まれは海外で、どことなく西洋的なカルチャーを感じるように思います。そんな「どことなく」感じる部分を少し掘り下げてみます。

「コーデュロイ」という織物の起源は、紀元前200年の古代エジプトに遡るほどに古く、その名前の由来については諸説あり、実際のところは明らかになっていないようです。
コーデュロイの名前の由来の一つに、17世紀のフランス王「ルイ14世」説があります。献上されたコーデュロイの素材感をルイ14世が気に入り、宮廷の庭師の制服として採用したことから、「Corde du Roi / 訳:ルイ王の畝(うね)」と呼ばれるようになったという話です。一説に過ぎませんが、それだけ当時の上流階級の中で、コーデュロイは馴染みのある素材だったのだろうと想像します。

その後コーデュロイはイギリスに伝わり、18世紀後半の産業革命によって大量生産が可能に。耐摩耗性があることから、労働者が身を包むワークウェアとして根づきます。階級社会において、コーデュロイが労働着として着古されていくその様子は、「貧乏人のためのベルベット」と揶揄されたこともあったそうです。

それからコーデュロイの生産は一時衰退しますが、1960年代の「カウンターカルチャー」の誕生とともに復活をとげます。1970年代にはビートルズも着て人気に火がつき、反体制の象徴として着用されました。また同時期のアメリカでは、名門私立大学が構成する「アイビーリーグ」の学生や、西海岸のサーファー、著名人の間でも流行に。マス・メディアの発達も伴い、コーデュロイの存在は広く知られるようになります。

王様・労働者・カウンターカルチャー・大衆文化を経て、現在へ。コーデュロイは時代も身分もグループも飛び超えて、様々な文化のファッションアイコンとして脈略と受け継がれているようです。こうして続いてきた背景が、コーデュロイが持つ雰囲気や魅力の一因になっているのかもしれません。

参考文献:
Backward HP(2023. 12. 5)「Corduroy’s Tale: From Kings’ Cloth to Vintage Wear」
THE RAKE JAPAN HP(2022. 12)「THE HISTORY OF CORDUROY」

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