【地域のこと / 観光協会】八女の匠文化が結集する「箱雛」。人形<ヒトガタ>に託された、人間たちの願い。/Yame Rediscovery vol.34

現在、八女福島の地区一帯では「雛の里・八女ぼんぼり祭り」が開催されています。
今回は古くから続く日本の伝統行事の1つである「雛祭り」に焦点をあてて、そもそも雛祭りってどういう意味があるのか、そして八女福島を象徴する雛人形「箱雛」について、お伝えしたいと思います。

中国から伝わった五節句の1つに「上巳(じょうし)の節句」といって、3月上旬の巳の日に、草や藁で作った人形(ひとがた)で自分の体を撫でて汚れを移し、それを川に流すことで厄払いや邪気払いを行う風習がありました。

ちょうどこの風習が広まる平安時代の頃、貴族階級の女の子の間では、今でいうおままごとのように、紙の人形を使った遊び「ひいな遊び」が流行しており、上巳の節句の習慣とひいな遊びが結びつくことによって現在の「雛祭り」の原型が作られたと言われています。

室町時代から江戸時代にかけて、川に人形を流して遊ぶことから次第に、家に人形を飾って愛でるという習慣が定着するようになります。この頃、日本のモノづくり文化が洗練され、人形作りの技術が発達したことがきっかけです。

こうして上巳の節句は家に人形を飾るという風習が根付いた頃、江戸幕府によってこの日は女の子のための日だと定められ、3月3日のひな祭りは女の子の健やかな成長と幸せを願う日へと変化していったのでした。

自給自足の精神からうまれた庶民による、庶民のための雛人形文化

江戸時代に一気に雛祭りの文化が広まった頃、京都・大阪・江戸・名古屋といった日本の中心都市では、雛人形を売る「雛市」がつくられ、豪華な金襴生地を用いてつくられた雛人形が高値で取引されるようになりました。

このような高価な雛人形を買い求めるのは各地の大名諸家や裕福な大商人の家庭がほとんどで、流通範囲が限られていながらも、このような華やかな雛祭りの文化は豊かな階級層を中心として全国の城下町で栄えていきます。

一方で、一般庶民にはこのような贅沢が許されていない時代であったことも事実で、貧しい家庭では身の回りの素材をうまく利用して自給自足的に、身分相応の人形を作るより方法がなかったのです。

仏壇、提灯、手漉き和紙など伝統工芸品を育んで来た八女では、これらの匠文化を利用してこの地方独特の雛人形「箱雛」が浸透していきます。
写真)この溝に蓋をはめ込んで、役人からの目を逃れていた。

この「箱雛」は、江戸時代後期から昭和の半ばまで八女福島の仏壇店や大工の副業として、注文に応じてつくられたものです。杉や檜を利用して作った2つの箱に、男雛と女雛を1体ずつ収納したもので、衣装には仏具の布、冠などの金具には提灯の部品を利用するなど八女の文化がこの雛人形に集結しているともいえます。

江戸時代の倹約令の時には、庶民が豪華で大きな人形を作ってはいけないとされていたのですが、八女では職人が立派な人形をつくり、役人が家にきた時には見つからないようにと箱に入れて、蓋を閉じるだけで隠せるようなっているのです。まさに、庶民の知恵といえます。

こうして様々な匠文化を利用してつくられる八女の箱雛は、人形自体の完成度が高いだけでなく、取り扱いが非常に便利であることから、八女地方では雛人形といえば箱雛を示すほどになり、明治時代には近隣の町からも注文がくるようになります。

今では復元されたり、現代風にアレンジされたりと、八女の匠文化を象徴するものとして飾られる箱雛。ぼんぼり祭りの期間中は、町の民家や店先などで時代や作り手の異なる様々な箱雛を見ることができます。

役人の目を逃れてでも、これほどまでに「飾りたい」という思いを持つのは、子供達の幸せを願う気持ちがあるからこそ。幸せになれますように、悪いことが起こりませんように、という願いを託された雛人形たちは、何代にも渡る人間たちの思いを健気に受け止めてきたのです。

一見、怖いという印象を持たれることもある雛人形ですが、そんな親から子への連綿と続く「願い」の結晶として捉えると、なんだか手を合わせたくなってしまいます。八女の匠文化と、人々の願いとが詰まった「箱雛」をめぐってみるのも、この時期の八女の楽しみ方です。原・渡邊

「雛の里・八女ぼんぼり祭り」
期間: 2019年2月10日(日)〜3月10日(日)
時間: 10:00〜17:00(ただし、営業の場合は営業時間内)
会場: 八女市福島地区一帯
問合: 八女観光案内所 0943-22-6644

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