【地域のこと/観光協会】洋画家・坂本繁二郎が愛した八女の自然の風景とは。地域に文化人は必要だ。/ Yame Rediscovery vol.18

【地域のこと】洋画家・坂本繁二郎が愛した八女の自然の風景とは。地域に文化人は必要だ。/ Yame Rediscovery vol.18

八女にはかつて、坂本繁二郎という日本の近代美術史に残る洋画家が住んでいました。八女の町には、坂本繁二郎記念館があったり、石碑があったり、名前を聞くことはよくありましたが、正直、そこまで絵画に興味がなかったので、深く知る機会がありませんでした。

毎月、八女の観光案内士の皆さんに、思い出や思い入れのある場所を案内していただいていますが、今回ご案内いただいだ門司佳代子さんは、坂本繁二郎さんがお好きだとお聞きしたので、これはチャンス!ということで、ゆかりの地をご案内いただくことになりました。

門司さんと一緒に、坂本繁二郎さんが住んでいた家やアトリエに足を運んでみると、風景や環境がとても気持ちよくて、美しい場所ばかり。あ、こういう場所を選ぶ感覚の持ち主なら、なんだか気が合いそう!と勝手に心のお友達に笑。

八女の風景をフランス留学時代に過ごした田舎町バルビゾンに重ね、八女に自宅とアトリエを構えた坂本繁二郎。足跡を辿ることで、彼の視点から見た八女の風景や土地が鮮やかに浮かび上がっていく感覚を覚えました。

坂本繁二郎はどのような画家だったのでしょうか。どうして八女にたどり着いたのでしょうか。観光案内士の門司さんにお話を伺いながら、巡ってきました。

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親友でもあり、ライバルでもある。青木繁と坂本繁二郎の運命。

坂本繁二郎を語る上で、切っても切り離せないのが、若くして夭折した天才画家、青木繁です。《海の幸》で知られる青木繁、そして《放牧三馬》を描いた坂本繁二郎。日本の近代美術を盛り上げたこの2人の画家は、同じ年に久留米に生まれた同級生で、親友としてライバルとして、常に比べられる存在でした。

明治14年(1882年)生まれの2人は、小学校時代から絵の才能があり、同じ画塾に通っていました。その後、画家を志した青木繁は、1900年に上京し東京美術学校に入学します。一方で坂本繁二郎は久留米に残り、小学校で美術の先生をしながら絵を描いていました。

20歳の年、徴兵検査で久留米に帰ってきていた青木と再会した繁二郎は驚きます。青木の絵が格段に上達していたからです。刺激を受けた繁二郎は青木とともに上京することを決め、1902年に不同舎という同じ画塾に入門することになるのです。

共に郷里の家族を養わなければならない立場でもあった二人は、貧しい画学生として、時には同居しながら切磋琢磨します。青木の代表作《海の幸》が生まれた千葉・房州での写生旅行は、繁二郎も一緒でした。

そんな二人の運命が変わったのは1907年。東京府勧業博覧会において、繁二郎は『大島の一部』で3等賞を受賞しますが、青木は『わだつみのいろこの宮』が3等賞末席と評価が別れました。そんな失意の青木に追い打ちをかけるように、父危篤の知らせが入ります。

父を亡くし、画壇からも評価が得られなかった青木は各地を放浪しますが体を壊し、28歳の時にこの世を去ってしまうのです。青木繁の絵が「天才画家」として評価されるようになったのは、彼の死後だったのでした。

繁二郎は小学校で美術を教えていたときに、ブリヂストンの創業者の石橋正二郎と知り合っていました。ライバルだった青木繁が亡くなった際、繁二郎は石橋に青木茂の絵を買うようにお願いします。それがのちにブリヂストン美術館に所蔵され、青木の名を確固たるものにしたのです。

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八女に見た、フランスの田舎町バルビゾンの自然と風景

ライバルを亡くした繁二郎はその後も絵を描き続け、39歳でフランスへ留学します。3年間フランスで過ごしますが、彼がもっとも愛したのはフランスの自然と田舎町バルビゾンでした。

フランスから帰国した繁二郎は、アトリエとして適した場所を探していました。たまたま友人から紹介された八女を訪れた繁二郎は、橋から見える田園風景と遠くに見える飛形山の景色をみて「ここはバルビゾンだ!」と叫んだといいます。

結局繁二郎は八女に自宅とアトリエを建て、残りの生涯を八女で過ごしながら創作を続けたのです。今回門司さんに連れて行っていただいた、繁二郎の自宅跡もアトリエ跡も、脇に小川が流れ大きな木が生い茂り、日本とフランスが混ざったような不思議な雰囲気のある場所でした。

場所を訪れて何よりも感じたのは、繁二郎が自然を愛し、自然を描いたのだということ。風景の見え方が切り取り方の感覚が違うだけで、こんなに違って見えるのかという新鮮な驚きがありました。

今回案内してくださった門司さんも、そんな繁二郎が描く自然の風景が大好きなのだそうです。もともと福岡県篠栗町という豊かな森のある土地で育った門司さんは、結婚を機に八女へきたため、最初は慣れない土地で抵抗感もあったといいます。

しかし薬剤師だった旦那さんと一緒に、山奥の学校などに薬を配達に行ったりする際に、八女の自然の豊かさに触れ、だんだんと八女のことが好きになっていったのだそうです。

違う土地から引っ越してきた中、八女の自然に受け入れられる経験をした門司さんだからこそ、時代は違えど、坂本繁二郎の絵と人生に共感されているのかもしれない、とお話を聞きながら感じました。

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芸術家・文化人が地域にいることで生まれる、文化ネットワーク。

最後に八女の福島公園にある、繁二郎の銅像もご案内いただきました。なんだか優しいお顔で、人柄が滲み出ています。近代美術を支えた坂本繁二郎も、八女の町の中ではひとりのおじいちゃんでした。「繁二郎さんがお弁当持ってお散歩してた」と覚えている方もいるそうです。

繁二郎は八女で多くの弟子を教えました。繁二郎の銅像をつくった彫刻家の今里龍生も一時は八女で活動し、市内にいくつも作品を残しています。繁二郎の弟子であった井上三綱の絵も、市役所の中にさりげなく飾られています。

また交流のあった川端康成も繁二郎を訪ねて八女へやってきた写真が残っています。繁二郎の奥さんはお茶の先生やっていたそうで、八女にはお弟子さんたちもたくさんいらっしゃいます。

坂本繁二郎のような芸術家・文化人が地域にいたというのは、とても意味のあることだったのだろうと思います。人が文化を作り出し、繋がりが生まれていく。

そんな文化のネットワークを知ることで、いつも何気なく見ていた絵が違って見えたり、銅像にドラマを感じたり。門司さんはそれが楽しくて、作品があると聞けば飛んでいくのだそうです。地域は教科書であり、美術館でもあるのだと感じることができました。渡邊・河合

◉Yame Rediscoveryとは?
八女福島観光協会とうなぎの寝床による、福岡県八女市の福島地区の魅力を伝えるコーナーです。地域に眠っている魅力的な人・食・ことなどの観光資源を「Rediscovery=再発見」し、お伝えしていきます。

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