【2000文字コラム 渡邊令】綿について考える。時代も国境も超えて、旅をする。

【2000文字コラム 渡邊令】綿について考える。時代も国境も超えて、旅をする。

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綿糸の原料。綿の実。別名、コットンボール。
Cotton as it is – then it is spun into yarn.

かつては「超高級品」だった木綿。
綿栽培が、日本に辿り着いて根付くまで。

衣服の素材、デザイン、色・・・。何を重視するのか。

普段着ている衣服の素材を、皆さんはどの程度重視しているでしょうか?デザイン重視の方、質感重視の方、なるべく天然繊維を着たいという方、かなり人によっても違うのではないかと思います。私はこれまでは衣服は色や形などでしか考えておらず、あまり素材そのものに興味を持ったことはありませんでしたが、久留米絣に関わるようになってから必然的に知らないといけなくなりました。久留米絣は綿100%の織物で、柔らかく丈夫で品質が良いといわれています。綿織物を普段から身につけるようになって、そうした体感としての生地の特性は少しずつ分かってきました。

綿ってそもそも何?構造と特性。

よく知られている通り、綿はワタの木から採られる種子の部分。ワタの実は果肉が発達せずに、種子の表皮細胞が「コットンボール」と呼ばれる繊維の玉に成長して、ある程度成熟すると破裂します。人間に摘み取られなければ、本来はふわふわの綿の力でそのまま遠くに飛ばされたり、水に流されていったりして、子孫を遠くに増やしていくのです。つくづく植物の子孫繁栄メソッドの多様性には驚きます。品種によっても違いますが、この時点ですでに20mm〜50mmくらいの長さの繊維状になっています。この繊維を捻りながら、糸を紡ぎ、一本の長い糸にしていくのです。

綿の繊維の中心部はほとんどセルロース(繊維細胞)で出来上がっていますが、そこに成長期に蓄えた水分が乾燥し、糸になる時点では中空構造になっています。要は乾いたスポンジ状態なのです。だからこそ吸水性・吸湿性に優れ、温度と湿度調整が自然にできるという特性を持っているのです。

紀元前の文明から始まる綿栽培。日本では高級品。

しかし日本における綿の歴史はそれほど長くはありません。もともとは紀元前、現在のインド・パキスタン地域のインダス文明で栽培され始めたといわれていますが、中国・朝鮮に伝わったのは10〜12世紀頃。当時はまだ麻、藤布、葛布、楮、品布など、自生していた植物繊維で布を作っていた日本人にとって、保温性や肌触りが良く、また糸紡ぎの効率も5倍以上だった綿は大変な「高級品」で、朝鮮との貿易の主要な輸入品でもありました。

江戸時代に広がった国産綿。一大「商品作物」

需要が増えていくにつれて、輸入するだけではなく、国産綿の栽培も試されるようになります。最初の記録は戦国時代の1492〜1500年頃、三河国(現在の愛知県)での栽培で、その後江戸時代に入った1592〜1595年頃に庶民の衣服として定着し、日本全国に木綿の織物が広がっていきます。しかしワタの木はどこでも栽培できるものではありませんでした。東北以南の温暖な地域でしか育たず、かつ排水のよい砂質の土壌でなければ、多くの収穫は見込めません。砂州、干潟などの干拓地、河川の氾濫原などが適しているということで、九州では有明海の干拓地がぴったりなように思いますが、土壌が粘土質だったためか、綿作は大きくは発展しなかったそうです。

江戸時代後期の時点で木綿の一大産地として発展していたのは、愛知近郊の三河国・尾張国、大阪近郊の摂津国・河内国・和泉国・大和国、瀬戸内海沿岸の播磨国・安芸国や山陰地方の伯耆国などでした(明治10年時点で、全国生産量の14〜18%を生産していた地域)。さて、これらの地域を見て、何か共通点にお気づきでしょうか?綿作に適した地理的条件であるのはもちろんですが、綿作りは多くの人手を必要とするため、豊富な労働力が確保できるのが条件。さらに「金肥」と呼ばれる干鰯(ほしか)や〆粕(しめかす)など、高価な肥料が必要な作物だったため、それらの雑魚が豊富に入手できる漁港が近くにあることも、産地として発展するために必要でした。

手間とお金のかかる綿作でしたが、稲作と比べると平均2倍以上の収益をあげていたそうです。糸・木綿に加工することで収入も得られ、非常に換金のしやすい魅力的な「商品作物」だったことが分かります。こうして各地で栽培された綿は、大阪の木綿問屋などによって仲買され、全国へ流通したのです。三河湾・大阪湾・瀬戸内海などの海沿いに面し、大阪という大都市にも近かった地域の綿作が発展したのも頷けます。

九州でも行われた綿栽培。しかし戦後は再び輸入綿に。

もちろん、九州でも全く栽培されていなかったわけではありません。明治初期の記録では、有明海のあった肥前国(佐賀)を始めとして、各藩でも少しずつ栽培されていたことが分かります。久留米藩でも少量ながらも栽培されており「有馬木綿」と呼ばれていたそうです。しかも久留米絣が発展した江戸末期から明治にかけては、繊維が長く糸に紡ぎやすい海外の綿の輸入が解禁になり、しかも昔ながらの手紡ぎではなく機械紡ぎがメインになります。そうして国産綿は早々に衰退していき、現在は海外綿をまとめて紡いで卸す大手紡績会社から綿糸を仕入れるのが、国内の綿織物におけるインフラになっています。

「鎖国」「開国」などの言葉の影響もあり、まるで日本が世界とつながったのは近代になってからだという錯覚を覚えてしまいがちですが、私たちの衣食住の原料やインフラは、何千年も前から世界とつながり続けてきたからこそ発達してきたのだと、糸や織物などの歴史を見ていくと痛感します。そして改めて、植物がもたらしてくれている富の大きさと、国境をいとも簡単に超えて、文化をつなげる役割に深く感じ入るばかりです。ある意味、ワタの種子以上のものを、世界中に広めていっているのかもしれません。渡邊∈(゜◎゜)∋ ウナー
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久留米絣は綿100%。綿糸を綿糸で縛って、柄を作る。
Kurume kasuri (ikat) cotton yarn – tied and waiting to be dyed to create complex patterns.

IMG_8676藍染絣工房にて。
Beautiful display at Aizome kasuri atelier.

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くくる前の準備。紡績会社から仕入れた綿糸。
Preparation before the binding (or tying) process. Cotton yarn is bought from big cotton spinning companies.

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あの綿の実がこんな糸になるのも不思議。
It takes a lot of effort to make cotton balls into yarn.

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仕入れる綿の産地はインターナショナル。季節と値段によって、紡績会社が調整しているそう。
The countries in which the cotton is made varies depend on the season and price – something that the cotton spinning companies decide, not the weavers.

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綿の繊維の内部構造。綿の繊維は第一次細胞膜(表皮、ネットワーク、ワインディングから成る)と、第二次細胞膜の2層で構成され、主要部分となる第二次細胞膜は全体の約80%を占める。主な成分はセルロースで、その他には水分、ペクチン、たんぱく質、有機質、ロウ、灰分などが含まれる。セ第一次細胞膜はミクロフィブリル(繊維を構成する最小単位)がネット上に配列している。第二次細胞膜はミクロフィブリルが螺旋状に並び、厚さ0.12〜0.35mmの薄い層(ラメラ)を形成して、20〜25層の年輪状に重なっている。

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明治10年時点での、全国の綿の生産量。

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繊維を科学的に分かりやすく教えてくれる本。今回は紹介できませんでしたが、化学繊維がいかにすごいかもよく分かる。

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