【2000字コラム 渡邊令】記憶の糸シリーズ ⑴ 戦後の再出発は、第二の創業 / 宮田智さん

【2000字コラム 渡邊令】記憶の糸シリーズ ⑴ 戦後の再出発は、第二の創業 / 宮田智さん

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宮田織物株式会社 会長、宮田智さん(85歳)。中国の綿の産地について、世界地図を広げながらご説明くださっている図。
Mr. Satoru Miyata, Chairman of Miyata Orimono (age 85), explaining about cotton manufacture in China.

中学生の肩にのしかかる重責
おばあちゃんと二人三脚で戦後の再スタートを切る

戦前・戦後の記憶を聞き伝えること。私たちの役割とは。

現代に生きる私たちが、昔の時代について考えたり話を聞いたりするとき、戦前・戦後という時代の区切り方をすることが頻繁にあります。それだけ時代が劇的に変わった節目だったからだと思いますが、その時間の境目のあちら側とこちら側の時間は一直線に続いていたこと、その節目を乗り越えた人たちがいるということを、ついつい忘れてしまいがちです。私自身も祖父母世代から断片的に昔の話を聞くことはありますが、戦前・戦後の大変革期が幼少期にあたる世代にとっては、当時の記憶と経験が、その後の人生と考え方に大きな影響を与えたんだろうと思わざるを得ません。

今年のもんぺ博覧会に向けて、いろんな織元さんにインタビューをさせていただきましたが、中にはもう子供や孫に全てを引き継ぎ、織元としての現役は退いている世代の方々もいらっしゃいます。時代の変わり目を見ながら、戦後の発展の基礎を作り上げてきた世代だからこそ、今を生きて戦っている世代とは違った視点を持っていると感じます。そして、残しておかなければ、誰にも伝わらないまま失われてしまう記憶・知識・知恵もたくさんあります。私たちもできる範囲で、そういう方々のところに伺って、貴重な記憶を少しでも残せるように、聞き伝えていきたいと思っています。

 

宮田織物の創生記。中学生にして直面した苦難。

記念すべき第一回目は宮田織物の会長として、会社を見守り続けている、宮田智さん(85歳)。もともと久留米絣の織元だった家業を方向転換させ、自社で織られた広幅の生地で、袢天や洋服などを作る一大メーカーへと成長した宮田織物の基礎を作った方です。お話の冒頭から最近の日本企業のニュースなどの問題点を熱く解説してくださり、経営者としての問題意識を現役で持ち続けていらっしゃるのがよく分かりました。
宮田織物を創業したのは祖母・宮田サカヱさんだったそうで、1913年に織屋さんを始めます。智さんのお母様はサカヱさんの一人娘で、智さんのお父様は婿養子として宮田家に入り、絣の家業を手伝っていたそうです。そんな中、智さんは1931年に4人兄弟の長男として誕生します。当時、筑後地域一帯は久留米絣の織元が多くあり、最盛期の1935頃には何千件単位であったといいます。宮田織物でも6〜7人の住み込みの織り子さんを抱え、量が多い時には群馬・前橋の刑務所に出機をしていたといいます(当時、刑務所は機織りの一大インフラとして機能していました)。

しかし1937年に日中戦争が始まり、1939年頃から布や糸の統制が始まると、絣の生産はどんどん落ちていきます。智さんのお父様は、そんな苦しい時代の中、ミシンを5台購入し、脚絆(きゃはん:ふくらはぎに巻く布)などを縫製して売っていたそうです。布を織るだけではなく、商品作りまで行う現在の宮田織物の「芽」は、そんな戦時中の葛藤の中で生まれていたのです。いよいよ布まで手に入らなくなってからは、油紙にくくり糸を織り込んで包装紙なども作っていたといいます。しかし、1943年に長く喘息を患っていたお父様が他界し、末っ子の産後に体調が戻らなかったお母様も翌年の1944年に、立て続けに亡くなられてしまうのです。

当時、まだ中学生だった智さん。一番下の弟さんはまだ4歳で、祖母のサカヱさんと一緒に大黒柱として家族を支えます。1945年には久留米・大牟田・大川なども空襲に遭い、中学3年生の智さんも学徒動員で当時、羽犬塚(筑後市)にあった日清製粉の工場で働いていたそうです。食糧関係の工場だったため、8月15日の終戦のあとも2週間に渡ってずっと働きっぱなしだったといいます。その後、1947年のお盆過ぎからはアメリカの綿花が入ってくるようになり、ようやく織屋を再開することができます。繊維産業は軍需産業から平和産業へ転換できることになったのです。

 

戦後の復興と、新たなスタート。未来を見据えて動き出す。

「数年前まで敵国だったアメリカ産の綿花を使うことに抵抗はなかったですか?」とお聞きしてみると「それはもちろんあったですよ」とのこと。抵抗感はあっても、自分たちが戦争に行ったわけではないし、何より品種改良されたアメリカの綿花は糸作り・布作りに一番適していたそうです。しかし戦後もまた激動の時代。生産開始してからわずか10年後の1957年頃から、繊維産業全体が斜陽産業といわれるようになります。久留米絣の織元も減っていく中、智さんは思い切った決断をします。小幅でしか織れない久留米絣の生産を止め、34台の広幅織機(愛知県の岩間織機)をががっと仕入れ、ブラウスなどの洋服用の生地やブリジストンのタイヤコードに使われる綿布などの工業用織物などが作れる体制を作り上げます。

「26〜27歳で、まだ若かったでしょうが、私も。時代もそれいけそれいけの頃で、気持ちも大きかった」と語る智さん。新しいものが好きで、かつ勢いのある時代だったからこそ、一歩を踏み出すことができたのだろうと思います。戦争に負け、物は不足し、近しい人も失った後の時代だったからこそ、「復興・発展・成長」というのが今とは違うキラキラとしたイメージがあったのだろうと想像します。久留米絣の産地もまた例外ではなく、そういう発展の基礎を築いた方々がいるからこそ、今でも産業として成り立っているのです。宮田織物がその後、どのように袢天・洋服作りを進め、智さんの娘である吉開ひとみさん(55歳)が社長として家業をどう引き継いでこられたかは、また別の機会にご紹介したいと思います。渡邊(゜◎゜)∋ ウナー

 

「第6回もんぺ博覧会」(詳細はこちら:http://bit.ly/26JUfcd
◎大もんぺ博覧会
東京展 | 渋谷ロフト | 6月9日(木)〜6月30日(木)
福岡展 | 松楠居| 7月16日(土)〜7月24日(日)
◎小もんぺ博覧会(うなぎの寝床のもんぺのみになります)
岡山展 | FRANK 暮らしの道具| 6月18日(土)〜7月3日(日)

【MONPE】
http://monpe.info
【久留米絣もんぺ通販】
http://bit.ly/1bLYM5p
【宮田織物 袢天】
http://bit.ly/18BwYhS

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宮田織物の創業者、宮田サカエさんの銅像。智さんの祖母にあたる方。実際はもっと優しそうな顔をされていたという。
Mrs. Sakae Miyata, the founder of Miyata Orimono, who is grandmother to Mr. Satoru Miyata.

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まるみや。ロゴマーク。
Logo mark of Miyata Orimono.

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袢天ボックス。Hanten Boxes.

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若き日の宮田智さん。シーサーに守られている。
Mr. Satoru Miyata in his 50s.

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袢天にも宮田織物マークがしっかり。先染めの糸を使った美しい織物。
Miyata logo mark on Hanten. The textile design is beautiful.

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宮田織物の玄関近くにかけてある、健康十訓。いつもみると反省する。
10 very insightful words to stay healthy – it makes me feel guilty when I see it….

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