【裏うなぎ】誰にとってのクオリティー?
それぞれの視点で、
クオリティの高さは違う。
物のクオリティーが高いということは、どういうことなのだろう。人と共有する時に使う言葉ではあるような気がするのだが。アートてきな視点でクオリティーが高い。民藝的な視点でクオリティーが高い。商業的な視点だクオリティーが高い。それぞれの視点に置いて、クオリティーの高さは違う。
例えば、商業的な視点で言えば、消費者の欲求レベルと、商品価格、原価、物の機能、見た目などのバランスが取れた物がクオリティーが高いと言えるんじゃないか。
物を話題の中心に据えて、アート、美術的にクオリティーが高いということは、歴史や文脈を汲んでいるか?造形的に美しいか?感性を刺激するか?どういう思想、哲学でその物が構築されているか?あげればキリがないが、抽象的な側面や、感覚的側面、歴史的、知識的側面が大きく関わっており、物そのものの実用的な機能は求められない。
僕らはお店を運営しているが、様々な分野な方と意見交換を行う。デザイン、アート、民藝、経済、いろんな視点で物や、サービスや、環境のあり方が語られる。それぞれにとって、求めるクオリティーというものはやはり違う。
先日アメリカ人と、京都の方をアテンドした。美術方面の専門家と、経済の専門家。この筑後地方という土地、日本の地方をベースにそれぞれの考え方が語られた。アメリカの方は、やっぱり自分だったらこういうサービスが欲しいなとはっきりと意見を言われた。おそらく、それを実行したほうが良いという意味ではなく、僕ならこういうサービスがあれば利用するよ。というニュアンスだったと認識している。
心地が良い宿と、プールと、あさのコーヒーとジム。僕はこういうものがあればいいなと。そのアメリカのかたにとってはそれが一つのクオリティーのあり方だと感じた。
日本人の僕からすると、この八女とのあまりにものギャップに驚いたと同時にいろんないけんがあって面白いなぁと感じたのだが、今から地方に置いては、誰に対してのクオリティーが高いものを提供していくのか、作っていくのかをしっかり考えていかないといけない時代なのかもしれない。
みんなが、中流階級であり、裕福なにっぽんなので、そういう意識を持たずとも、なんとなく仕事が成り立ってしまう。そして、日本全国均一な物と町がうまれる。
私の町は、ヨーロッパの富裕層が観光として楽しめるように意識します。というまちがあってもいいし、完全に内向きの学生にとって、ものづくりを志すならここしかないという学芸都市をつくります。とか、いろんな考え方があるかもしれないけど、それぞれの町、団体、組織、個人が、もっと何かを強く意識しながら生きていかなければならないんじゃないかという危機感のようなものを最近感じている。
白水