【地域のこと/観光協会】商人が栄えると、文化が深まる。歴史から学ぶ、八女の白壁の町並みができるまで 。/ Yame Rediscovery vol.13

【地域のこと/観光協会】商人が栄えると、文化が深まる。歴史から学ぶ、八女の白壁の町並みができるまで / Yame Rediscovery vol.13

八女という土地で生まれ育ったり、仕事をしてきたりして、人生を重ねてこられた観光案内士の皆さん。いま町を歩いていても、見えてこない時の積み重ねやストーリーを教えていただきながら、個人的な思い出の場所やおすすめのスポットを案内していただいています。

今回のご案内いただいた観光案内士は、学生時代に乗場古墳や岩戸山古墳に魅せられ、地元八女の高校で長年、歴史を教えてこられた角田さん。八女の象徴でもある白壁の町並みの歴史を紐解く場所として、連れて行っていただいたのが、今は「八女公園」となっている福島城趾です。

いま見ると、本当にただの公園なのですが、数百年前どうであったのかに思いを馳せながら聞くと、ふわぁーっとその時代の風景や人間たちが浮かび上がってくるような錯覚を覚えました(とてつもなく暑い日差しで頭がぼーっとしただけかもしれませんが・・・笑)。

八女福島は結果的に、江戸時代のほとんどの時代を、武士のいない商人と職人だけの町として生きてきました。「商人が栄えると、文化が深まる」という角田さんの言葉の通り、八女に残る独特な文化の香りを生んだ、そんなちょっと特殊な八女福島の歴史を紐解いていきましょう。

福島城の33年間。出張所的なお城から土木の神様の手に渡るまで

時は戦国時代にまでさかのぼります。豊臣秀吉が天下統一のために、最後に残った九州の島津氏を討つというとき、秀吉側にいたのが筑紫広門(ちくしひろかど)という武将です。鳥栖のちょっと向こうの田代というところにいた人ですが、島津を倒して帰ってきてからは褒美の土地をたくさんもらいました。

1587年に、広門はそのときの褒美で「山下城」という城ももらいました。矢部川を渡った立花の、小高い山を登ったとこにある山城です。しかしそこが不便!町外れの山の上なので、交通の便が悪かったのです。そこで、当時ひらけていた八女福島に出張所のような砦を作っていきました。それが「福島城」になっていくのです。

月日は流れ、広門が福島にきて13年後の1600年、関ヶ原の戦いが起こります。広門は秀吉の家臣の石田三成につきますが、ご存知のとおり秀吉側はこのとき負けて、勝った徳川が江戸幕府を開いていきます。福島城も、この戦いでいちばん活躍した田中吉政という武将に渡ります。

この田中吉政、滋賀県の近江八幡などもつくった「土木の神様」とも言われる人物なんです。関ヶ原の褒美に柳川・立花・八女・久留米を支配するようになり、次男を久留米に、三男の康政を福島に配置し、柳川から八女にかけて大工事を行っていきます。

柳川の堀や、久留米までつながる「田中道」、八女では福島城の周りの三重の堀をつくりました。その堀は今、用水路や細い溝になって町中にひっそりと残っています。そして、その中堀と外堀の間に道路を通してまちを割るという「敷地割り」を、八女福島の町に施しました。それがきれいに整理されて残っていることも、八女福島が伝統的建造物保存地区になっているひとつの要因です。

しかし吉政は、福岡の地に来て8年くらいで亡くなってしまいました。そこで四男の忠政が父のあとを継ぎますが、そこから兄弟仲が悪くなってしまいます。1615年に大阪夏の陣に行かなくてはいけないときに、兄弟げんかで田中家は出遅れてしまいました。そのせいで徳川家ににらまれて、四男・忠政は江戸で謹慎、その途中で亡くなってしまいます。武断政治の真っ只中なので、跡継ぎがいない田中家は即刻取り潰しになってしまいました。

福島城はというと、1615年の一国一城令で廃城になってしまいます。「久留米藩には久留米城ひとつでいい」ということになってしまったのです。筑紫広門の時から数えても、たったの33年です。その後は荒れ果てて、畑やお墓になったりしたそうです。

城なきあとの福島。職人と商人の町へ

お城がなくなったので、八女福島からは武士がいなくなってしまいました。そのように、商人と農民だけで、武士のいなくなった城下町のことを「在郷町(ざいかたまち)」というそうです。

しかし、町筋には武士の道具を作っていた職人がたくさん住んでいました。職人と、それを売る商人の町として、江戸時代の中頃から栄えていったのです。福島は八女の東側に位置しているので、木材や和紙など山のものの集積地にもなりました。

商人・職人たちは火災から大事な商品を守るために、それまでは茅葺きや藁葺きだったものを白壁の家にかえていきました。ここから明治、大正、昭和にかけて白壁が造られました。

職人がいたことで商業も発達した八女福島。商人が行き交うということは、商品だけでなく文化も行き交います。中央の江戸で栄えていた元禄文化は八女にも入ってきて、多くの文化人や俳人なども輩出したといいます。

城ができたことで武士が集まり、その道具を作るための職人が生まれ、それを売るために商業が発達し、行き交う商人が文化も運んでくる。そうしてできたのが現在の八女福島の町なのです。

今回案内してくださった角田さんは、表層で見えるものだけではなく、歴史の積み重ねやそこから生まれる深みを知ることで、得られるものが多くあるのではないかと語ってくれました。歴史というのは、学校で学ぶ時は堅苦しく感じる人も多いかもしれませんが、生きていたのは時代が違うだけで同じ人間。知り合いだと思えば、なるほど!と思える知恵や考え方も多く学べます。

いまの時代も、八女は観光地というよりは、商売の場であったり生活の場である、リアルな町です。現代の人間の経済活動が、これからの地域にどんな影響を与えていくのか、歴史からも学びながら、考えていくことを続けていきたいと思います。(河合・渡邊)

読み込み中…