【地域のこと/観光協会】九州最古の茶商、許斐本家。八女茶ブランドが生まれるまで。/ Yame Rediscovery vol.8

【地域のこと/観光協会】九州最古の茶商、許斐本家。八女茶ブランドが生まれるまで。/ Yame Rediscovery vol.8

福岡県八女市で茶商を営む「矢部屋 許斐本家」は、江戸宝永年間(1704-1710)創業の九州最古の茶問屋です。

もともとは山間部の矢部村で採れる茸、茶、楮(和紙の原料)、木材などを扱う山産物問屋「矢部屋」として、初代・許斐甚四郎が江戸宝永年間(1704-1710)に創業しています。当時お茶は、数ある商品ラインナップの一つでしかありませんでした。

変化が訪れたのは、1856年のペリー来航により開国を余儀なくされた江戸時代末期。長崎には、オランダ船以外にも新たな貿易を求めて海外から多くの商船がやってくるようになり、日本茶の需要が急速に加速します。

当時、ヨーロッパでは貴族の間で東洋趣味が流行しており、茶葉は金銀に相当する非常に高価な嗜好品として扱われていたのです。

長崎の女商人・大浦慶をはじめとして、貿易商たちが九州中の茶葉を買い付けていく中、矢部屋8代・許斐寅五郎は山産物問屋の茶商部門を独立させ、1865年に日本茶の専門問屋として新たなスタートを切ります。

許斐本家には、輸出向けに作られた英語やキリル文字のパッケージの茶箱も残っており、当時の日本茶輸出の勢いのすごさを垣間見ることができます。

 

 

しかしその勢いは長くは続きませんでした。明治に入って、輸出を急ぐあまりにきちんとした品質管理をせずに粗悪品を送る業者も増えていき、1883年にはアメリカで贋茶(粗悪茶輸入)禁止条例が出されるなど、海外での日本茶の評判は落ちていき輸出量も減っていきました。

危機感を感じた9代・許斐久吉は国内での販売拡大を目指し、「八女茶」のブランド化を目指します。

今ではコクと甘みのある高級茶として知られる八女茶ですが、当時は名称や品質も産地内でバラバラでした。許斐本家はそんな地元の声をまとめて、ブランドとして確立させた「八女茶」の名付け親でもあります。

当時集落ごとに栽培されていたお茶は、黒木茶、星野茶、笠原茶など細かい地域名で呼ばれており、しかもほとんどが、当時高級とされていた宇治茶などの蒸製緑茶とは異なる、釜炒り製法だったため、地元をまとめるのは困難を極めたそうです。

結局「八女茶」として名称と品質がまとまったのは、1925年に10代・許斐久吉が地元の茶の品評会の会合で特産化を提案し、可決されたときでした。現在では全国生産量1位の玉露をはじめとして、八女茶は甘みとコクのある高級茶として知られるようになったのです。

現在は14代目の許斐健一さんが、江戸時代から残る居蔵造りの町屋を引き継ぎ、八女茶の専門店として代々受け継がれる歴史と文化を伝えています。

さまざまな文化や工芸品を紹介するイベント等も企画されていますし、八女福島の白壁の町並みの中では必見のスポットです。美味しいお茶と八女の文化を味わいに、ぜひ立ち寄られてみてくださいね!渡邊

 

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