【地域のこと/観光協会】血のかよった物語。観光案内士の馬場さんに伺う、八女福島の銭湯「不動館」の思い出 / Yame Rediscovery vol.6

【地域のこと/観光協会】血のかよった物語。観光案内士の馬場さんに伺う、八女福島の銭湯「不動館」の思い出。 / Yame Rediscovery vol.6

インターンで八女に住んでいる間、ずっと気になっていた建物がありました。「男湯」「女湯」の文字、古くくすんだピンク色の壁、「不動館」という今はやってない銭湯です。

今回は、八女観光案内士の馬場さんにお話をうかがいながら、当時の思い出とともにこの不動館を見せてもらいました。家庭にお風呂ができる前、みんなが共同風呂を使っていた時代には、つくらなくても自然に生まれる地域のつながりがありました。

戦後の生きにくい時代を、ひとりの女性が八女でどう生きたのか。御年81歳の馬場さんに話を聞くと、私たちの知らない八女が見えてきました。

毎日通っていた不動館。出会いと社交の場所だった。

表の鍵を開けてもらい中に入ると、馬場さんは最初に「懐かしい~!」と声をあげました。中学2年生から結婚するまで、およそ10年ものあいだ通っていたそうで、思い出がいっきに蘇ってきたようでした。

浴場の中は、吹き抜けで男湯と女湯がつながっていて、当時は「ちょっと投げて~!」という声と一緒に、せっけんやタオルなども吹き抜けの上を飛び交っていたそうです。知り合いばかりなので、声でだれがいるかわかるそう。

中学2年生のときに、立花の方から不動館のある八女本町に引っ越してきたという馬場さん。でもともだちと離れるのがいやで、片道1時間半かけて立花の中学校まで歩いて通ったそうです。

寒い思いをしながらひとりで下校したあとに、家族みんなで入りにいく冬のお風呂が、馬場さんの楽しみでした。近所に同世代のともだちはいないけど、みんなが入りにくるお風呂は出会いの場でもあり、ほんとうに地域がつながる場所でした。

昭和40年代から家庭にお風呂ができはじめて、共同風呂を使う人は減りました。不動館も3年前に閉めるときには、土日だけの営業だったそうです。家にお風呂があると楽ですが、そのかわりになくなるものもやっぱりあったと思います。

観光案内士として、変わっていくことを伝えていきたい。

馬場さんの青春時代は、まさに戦後まもない貧困の時代でした。戦争で早くになくされたお父さまの分もお母さまが衣類の商売をして、なんとか学校にも行かせてくれたそうです。

職業差別もあたりまえにある時代、なんとかたどりついた仕事は保母さんでした。立花町でいくつもの保育所を転々としながらその立ち上げに関わり、30歳を過ぎてからは園長先生としてたくさんの子供の世話をしました。

そんな中、はやくに旦那様もなくされました。3人のお子さんの育児と仕事の両立を助けてくれたのも、馬場さんのお母さまでした。園長先生の子供が悪いことをしては仕事にならないと、手伝ってくれたそうです。今では、当時馬場さんがあずかった子供たちが退職するような年齢になっています。

馬場さんが観光案内士をはじめたのは、保母さんを退職されてから。郷土史の勉強会や、八女の町並み保存の活動がはじめたタイミングもあいまって、観光案内士の立ち上げにいたったそうです。

たかが風景、されど風景。変わっていくのは避けられませんが、風景がすっかりなくなってしまうと、そこにあった人のストーリー、思い出も忘れ去られてしまうような気がして、少しさみしい思いがします。

観光案内士の方たちは、パンフレットには載ってない、血のかよった物語を伝えてくれます。「変わっていくことを伝えていくのが私たちの役割」と、馬場さんはおっしゃっていました。思い出をまじえながら歩くことで、いつもと違った風景に見えるかもしれません。

今回訪れた不動館はなんと復活計画中!恵比寿酒店の社長・橋口さんが改修をおこなって、また銭湯として動き始めるそうです。昔あったという浴場の壁の絵も復活したいということで、どんな空間になるのか楽しみにしています。河合

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