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【地域のこと/観光協会】八女とアジアの意外な接点。童男山古墳が伝える徐福の伝説 / Yame Rediscovery vol.40

3月 12th, 2019

【地域のこと/観光協会】八女とアジアの意外な接点。童男山古墳が伝える徐福の伝説 / Yame Rediscovery vol.40

九州・福岡はアジアへの玄関口。最近よく聞くフレーズだと思います。はたして、いまの九州が実際にそのような役割を担えているかは別にして、日本の古代史を紐解いていくと、あながち間違いではないことがよく分かります。

八女地域には、実は古墳が多く存在しています。最も有名なのは、九州北部最大の岩戸山古墳で、大和朝廷に反乱を起こしたといわれる筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)が埋葬されています。

玄界灘や有明海沿岸から朝鮮との交易を通して力を握り、北部九州をおさめていたとされる王です。1400年以上前の時代は、もしかしたら今よりもアジアの一部である、という意識が強かったといえるかもしれません。

今回、案内していただいた観光案内士の内田さんは、韓国語に精通されているということで、大陸との意外なつながりのある古墳を教えていただきました。八女の山間部に入る入り口にある「童男山(どうなんざん)古墳」です。

童男山古墳に残るある伝説が、いまでも八女と東アジアとのつながりを結んでいます。一体どんなストーリーが眠っているのか、実際に訪ねてみました。


実はこの童男山古墳、誰が埋葬されているのか、はっきりとは分かっていません。しかしある伝説が伝わっている古墳なのです。

かつて中国の始皇帝に遣わされ、3000人の童男童女と百工(多数の職人)を引き連れ、「不老不死の薬」を探しに日本へやってきたという言い伝えが残る「徐福」の墓であると言われています。旅の途中で船が難破したどり着き、住民が火を焚いて温めたという逸話も残っています。

徐福については、司馬遷による『史記』にも記述があり、最終的には不老不死の薬は見つけられずに、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、中国(当時の秦)には戻らなかったと伝えられています。

その真相は2000年以上前のことなので定かではありませんが、徐福にまつわる伝説は、実は八女以外にも、九州各地や和歌山・三重・愛知・東京・青森など、日本全国に残っています。韓国や中国にも徐福が立ち寄ったとされる場所が点在し、近年では中国で「徐福村」が発見されるなどして、研究も進んでいるようです。

実際に八女市では、同じく徐福伝説のある韓国の巨済島(コジェ)の巨済市と、2012年に姉妹都市締結をしており、毎年徐福の命日とされる1月20日に、火を焚いて徐福の霊を弔う「童男山ふすべ」で交流をしたり、共同で研究会など開催しています。


実際のところ、徐福は実際に実在したのか、どのような旅路だったのかなどは、わかりません。童男山古墳も、徐福伝説の700-800年後に作られたもので、当時の別の有力者を埋葬する際に、一緒になったとも考えられますし、徐福自身ではなく同行した童男童女の墓であるとも考えられます。

しかしこうした交流事業に関わる人々の熱意に触れると、事実かどうかというのはそこまで重要ではないのだと感じます。同じ歴史ロマンに心を踊らせ、2000年以上前にあったかもしれない東アジアのつながりに思いを馳せ、研究すること自体が目的なのです。

もしかしたら2000年前よりも現代の方が、よっぽど心の距離は遠くなっているのかもしれません。どこの国・どこの地域に属するか、というのは個人の意識の中だけに存在する境界線です。

童男山古墳は、太古の人々が持っていた、もう少し広い世界の捉え方を思い起こさせてくれます。立派な安山岩や凝灰岩の石室は、中に入って見学することも可能です。ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。渡邊


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