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【2000字コラム 渡邊令】文化と物資を運ぶ「水の道」:筑後川と矢部川の重要な役割とは?

4月 28th, 2016

大川木工家具、日田林業、八女手漉き和紙、久留米絣。
大動脈としての川、境界としての川、記憶としての川。

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大川の組子技術。発展の理由は「川」にある

先日、再びフィンランドのアーティストデュオ、companyの二人組(詳細はこちら: http://bit.ly/1X57Zrz)と宮田織物の原さんと一緒に、筑後の作り手を巡りに行ってきたのですが、その中で私が初めて見学させてもらったのが、福岡・大川の組子技術。大川は「木工家具の町」として全国的にも知られ、今回伺った組子工房の仁田原建具製作所さん(http://www.nitaharatategu.com)も、主に建具や欄間など「大物」の組子を製作されています。釘を一切使わずに100分の1ミリ単位で木と木を組み合わせ、美しい幾何学模様を表現する、気が遠くなるような職人技については別の機会でご紹介するとして、大川で木工芸が発達した経緯について仁田原さんに伺うと、交通の大動脈だった筑後川と、町の中に久留米藩・柳川藩の二つの藩の境目があったという、大川の町の特殊な作りがヒントになっていることが分かりました。筑後川(ちくごがわ)は、阿蘇山(九重連山の瀬の本高原)を水源として、途中で大分県の日田の玖珠川と合流した後、筑紫平野(うきは・朝倉・久留米・佐賀・神崎など)を突っ切る形で西に流れ、最終的には有明海に注ぐ、九州最大の河川です。久留米藩に属していた八女地域にとっても、筑後川はとても大きな存在です。大川はこの筑後川の河口に位置する町で、特に支流である花宗川の河岸に位置する榎津町と小保町は、古来から河川港として、そして肥前への渡船場として発達しました。江戸初期に久留米藩・柳川藩に分断されると、町の中に藩境ができ、さらに江戸中期には、久留米藩が若津港(1751年)を、柳川藩が住吉港(1774年)を開いたことで、大川は新旧4つの河川港がある「水運王国」となります。そのため大川には多くの船大工が住み、江戸後期には水車・戸・障子・戸棚・小細工物の技術が発展し、他領にも輸出されたといいます。

川は物流の直行バイパス。日田とつながった大川の職人。

大川で木工の技術が発達したもう一つの理由として、筑後川の上流に位置し、日田杉などの木材で有名な日田(現在の大分)から、いわば直行バイパスが通っていたことが挙げられるでしょう。日田から木材を運ぶため、その材木で筏(いかだ)を組み、筑後川を2〜3日かけて有明海まで輸送した「木流し・筏流し」と呼ばれた仕事が、江戸初期から昭和29年頃まで続いていたといいます。その木流し・筏流しについての貴重な記録本である『筑後川と道として』には、実際に木流しに従事していた最後の世代でもある、渡辺音吉さんの語りが残されています。日田から中継地の荒瀬(現在のうきは市の保木公園)までが一区切りで約4〜5時間。その後、引き続き大川まで向かう場合は、雨の降り具合で川の流れが変わったり、有明海の潮の満ち引きの影響も受けるため、潮時を待つ「潮待ち」をしなければならなかったりと、苦労も多かったようですが、途中「筏宿」のある町などに泊まりながら、2日ほどかけて下ったそうです。語りの中にはこんな記述もありました。「大川の人たちは、日田からばかり材木を仕入れよった。そして箪笥やら建具やらを作って、日本国じゅうどこにでも売りよった。筑後平野から下には木がないき、日田から木を持って行きよった。だからね、ずーっと前から、福岡と日田は木のことに関しては共同たい。榎津と日田は兄弟のようじゃった。あそこの発展と日田の発展は、どちらもなきゃ成り立たざった。」と。こんな密接なつながりがあったからこそ、日田の言葉は大分にありながら、佐賀・福岡・長崎などと同じ「肥筑方言」なのだそうです。物資だけではなく、川は文化が行き来するという重要な役割も果たしていたのです。

筑後川と矢部川。八女の歴史・文化の礎。

八女も筑後川と矢部川に挟まれた立地で、和紙や織物など「水」が重要な役割を果たす技術が発達し、川は材料や物品を輸送する役割も果たしていました。また矢部村・黒木町などをはじめとして、矢部川を境界線として久留米藩・柳川藩に分かれていた地域も多く、川の両側で風習や言葉が少しずつ違い、川を挟んで争いも多かったと聞きます。自動車の普及により「陸の道」が今のように発達する以前は、川や水路などの「水の道」がもっと有効活用されており、また自然が作った境界線としても大きな意味を持っていたのだろうと思います。うなぎの寝床のお店がある、八女の福島エリア(江戸時代からの町人街)には、町家の裏などに水路や水溝が、今でもちらほらと残っているのですが、誰にも顧みられず、忘れ去られた町の裏側のような感じです。しかし、古地図と見比べてみると痕跡が今でも残っている部分もあり、ちょっとわくわくします。小さな水路のようでも、その流れは大きな川へ、そして大海へ続いていく、ロマンの種みたいな場所なのです。八女・福島という小さなエリアをスタート地点に、大川をはじめとする筑後地域の他の町、そしてそこから見えてくる大きな世界を、少しずつ探索していきたいと思っています。渡邊

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本捻組(ほんねじぐみ)、別名 地獄組。まるで織物のように縦と横が波のようにうねって組まれている。
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仁田原建具製作所の仁田原ファミリーと。本当にありがとうございました。

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今回改めて読んでみて、非常に面白かった(筑後の地名とか距離感がわかるとなお楽しい)。

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大川市立清力美術館が発行している「藩境のまち」冊子から。大川の欄間と指物の歴史と系譜の案内。

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和紙の原料、コウゾを漂白し晒している和紙職人(兼サーファー)の溝田さん。

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フィンランドのアーティスト、companyのアーム。初の紙すき体験中。

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以前伺った、八女の林業組合のセリの様子。杉・ひのきが主に取引されていた。

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国立公文書館にて公開されている、天保9年の筑後国絵図。実物は3m級。ディテールすごいです。

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八女を知るための必読書。八女の語り部的に、尊敬されている松田さんによる著書。


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