【2000字コラム 渡邊令】アジアとつながる久留米絣:地域の独自性について考える
絣はインド発祥の技法「ikat(イカット)」
沖縄で発展した琉球絣と、久留米絣の歴史の捉え方
久留米絣:天然藍染め手織り
かすりが日本に定着するまで
何世紀にもわたる壮大な足跡
福岡の八女・広川地域に引っ越してきて半年以上、色々な作り手さんのところにお邪魔する機会がありますが、うなぎの寝床ともんぺ(http://monpe.info)とのつながりもあって、人を案内したり説明したりする頻度が最も多いのは、やはり久留米絣(くるめ・がすり)。絣(かすり)というのは、織る前に糸を部分的に縛ることで先染めし、独特のかすれ模様を出す技法のことで、英語ではikat(イカット)と呼ばれ、インド発祥の世界中に古くから見られる織物の技法の一種です。インドからつながる「かすり」の歴史はなかなか壮大で、目の前の一枚の布がどうしてここにあるのか、どうやって伝わり変化し継承されてきたのか、調べ始めると寝られない奥深さがあります。日本に最初に上陸した絣は、飛鳥・奈良時代(7〜8世紀)に中国から渡ってきた絹の染織品で、正倉院に残る「太子間道」や法隆寺の「広東錦」も絣の技法で織られたものです(当時は「秘錦」と呼ばれていたともいわれます)。ただ布は渡来したものの、数が少なかったためか絣の技法は定着せず、その後数百年は日本の歴史には出てきません。再び登場するのは室町時代(14〜16世紀)で、「締切絣」という、経糸をくくって2〜3色に染め分ける(現在のバイカラーのようなイメージ)絹の着物が、主に武士の熨斗目小袖(袴の上の羽織物)や能装束として作られていたそうです。その技術はおそらく現在の沖縄、当時の琉球王国を通じて伝わったものではないかといわれています。琉球王国は中国、朝鮮、東南アジアとの中継貿易で栄えており、インド・インドネシアなどから交易品として入ってきたのでしょう。その後、1740年に薩摩絣が作られたのを皮切りに、江戸時代後期(18〜19世紀)にかけて久留米・山陰・備後・越後・伊予・大和など各地に、急速に絣の技術が広がっていくのです(順番や経路は諸説あります)。
琉球絣も独特の文化と文様が発達
「御絵図帳」に基づく絣の柄
先日、知り合いの方がたまたま琉球絣の着物を着ていらして、その独特の文様が気になり、うなぎの図書館(代表白水さんの蔵書2000冊)の中から琉球絣についての本を引っ張り出してきました。そもそも琉球絣が発展した背景として、本土とは異なる沖縄独特の歴史に基づくストーリーがあり、アジア諸国との中継貿易に陰りが見えてきて国内産業を育成しなければならなかったこと、そして江戸初期の1609年に薩摩藩による「琉球侵攻(征伐)」が行われ属国となったことが挙げられます。絣の布は、本土への「貢布」として、糸の生産・染織・図柄の模様まで、琉球王府の厳しい管理下の元に生産されるようになるのです。そのため琉球絣には他地域の絣と違って、「御絵図帳(みえずちょう)」と呼ばれる琉球王府がまとめた600種類にも及ぶ図柄集がありました。「チミヌカター(爪の形)」や「トゥイグヮー(鳥小)」や「ミミチキトーニー(耳付きの豚の餌箱)」など沖縄独特の柄がたくさんあり、これらを組み合わせて柄が構築されていたそうです。民衆はこの「御絵図帳」の図案通りに織るように指定され、厳重な監査もあったといいます。納付が義務付けられた島の女性たちは大変な思いもしたそうで、沖縄の島々には織り子の女性たちの苦労の歌も多く残っていますが、だからこそ琉球独特の織物文化が醸成され発展したともいえるのでしょう。沖縄の絣織物の一種で「ミンサー織」と呼ばれる、綿糸を藍染めして織ったアフガニスタン由来と言われる細帯は、5つのマス目柄と4つのマス目柄を順番に織り込み、両脇の縁にはムカデの足をイメージした小さな線状の文様が連続しているものがほとんどで、これは「いつ(5)の世(4)までも、足繁く(ムカデ)通ってください」という、通い婚時代に女性が男性へ贈った、求愛に対する承諾の証だったそうです。かつて沖縄には「ムヌン・ソージィ(物忌精進)」という、1日中浜に降りて何もしてはいけないという、王国が年中行事として定めていた儀礼があったそうで、その暇な一日に女性たちは仕込んでいたミンサーを織り上げて贈ったといいます。同じ絣という技法だったとしても、文様や使われ方が国や地域ごとに異なるというのが、織物の面白さでもあります。
短期的ではなく、より長期的な歴史を
世界とつながる久留米絣
久留米絣の歴史が紹介されるとき、大体が創始者の女性であるとされる井上伝さんが、いかにして絣模様と技法を考案したかというストーリーが語られます。その歴史もまた一つの史実であるとは思いますが、個人的にはそのような一つの地域の中での短期的・短距離的な歴史だけではなく、長期的で広範囲な歴史も同時に見たらより面白いと思っています。技術やモノはあくまでも道具であり、国や地域をこえて広まっていくのは当然のことで、誰が先に作ったかという競争のようなものは、極端に言えば無意味だと思います。逆にそれだけ多文化と出会う機会があったという歴史的事実に、その地域の独自性があるわけです。そして、伝わったその技術でモノを作り・使う人々によって、同じ技術が変化したり独自に発展したりする、その表現そのものが「地域文化」であり、画一的ではない多様性を作り出す原点だと思います。渡邊
知り合いの方が来ていた琉球絣の着物
ミンサー織:沖縄の小幅の帯。「いつの世も」に象徴され
今回の参考文献一覧
室町時代に作られていたという「締切絣」。小さめの模様
こうしたバイカラー的な色の染め分
琉球の染織に記されていた、絣の流布予想図。対馬海流沿
正倉院に眠る、日本に初めて渡来した絣。「広東錦」「太
琉球で使われる天然染料の図。実際に糸まで貼り付けてあ