【地域のこと/観光協会】自然との命がけの戦い。人柱となって肥沃な土壌を生みだした、ある庄屋さんのお話。Yame Rediscovery vol.44

【地域のこと/観光協会】自然との命がけの戦い。人柱となって肥沃な土壌を生みだした、ある庄屋さんのお話。Yame Rediscovery vol.44

「命がけ」という言葉があります。命がけで何かを成し遂げる、など比喩の表現で使われますが、文字通りを命をかける人はそう多くはありません。しかしいつも何気なく通る場所には、誰かが命をかけて戦ったり築いたりした痕跡が数多く眠っているのです。

今回案内をお願いした観光案内士の水野さんは、八女福島から黒木へいく途中にある山内地区につたわる昔話を、まるで自身で体験したかのように話してくださるガイドさん。定年後に故郷である山内にご主人とともに戻り、ときたま観光ガイドをしながら自給自足の生活を楽しんでいるそうです。

山内地区はいまは星野川が流れるのどかな町ですが、古墳など古代の遺跡から、中世(鎌倉-戦国)の城跡などがあり、古くから地域の権力の中核を成す場所であったのだと気づきます。戦国時代には龍造寺家と大友家の戦いに巻き込まれ、黒木・山内一帯の領主たちは滅亡したり散り散りになっていき、江戸時代には久留米藩の領地となったのです。

その中で水野さんから教えてもらったお話は、江戸時代初期(1642年頃)、自ら進んで人柱となって星野川から八女に水を引く事業を成し遂げた、中島内蔵助という人のことでした。


現在の八女市吉田の庄屋だった中島内蔵助に、久留米藩から痩せた土地だった周辺の田畑を改良せよという命令がくだります。当時藩の命令は絶対です。従わないというオプションはありません。そのためには「水」が問題でした。結局6キロも離れた山内地区に流れる星野川上流の水をせき止め、水路を引いてくることになったのです。

しかし、堰作りの工事は難航します。村人総出でかかるも洪水が頻繁におこり、土嚢や杭もすぐに流されてしまいました。しまいには、ようやく堰が完成か、と思われた時に、大雨に襲われふりだしに戻る災難にも見舞われ、村人たちの士気は大いに落ちていました。

伝わる話では、中島内蔵助は「怒った水神さまが夢枕に立ち、人柱を立てるようにといわれた」と話したそうです。そこで中島は村人たちに「明日、草履の緒が左結びになっている者を人柱にする」と告げます。

当然、みな右結びでやってきます。しかしその中で唯一左結びで現れたのが、中島内蔵助です。最初から自らが犠牲なるつもりでいたといわれています。自ら進んで人柱となり、川の濁流に身を投げました。工事を成し遂げなければ、村人たちが藩から処刑されるからこその決断だったとも言われています。

一人の命が犠牲になったことで、村人たちは本気となり、堰作りは以前と比べ物にならないほど急ピッチで進んでいきました。そうして完成した「山の井堰」は山の井川として、八女市一帯から筑後市までの田畑を潤し肥沃な土壌を作り上げました。


八女の恵まれた自然環境がものづくりの土壌を生んだと言ってもおかしくありません。しかしその自然環境も、人間の努力と犠牲によって、人為的に生み出されたものも多くあります。

自然と戦うにしても、権力と戦うにしても、本当の意味で命がけです。そうした命がけの戦いが積み重なって現在の生活があるということを、改めて思い起こさせてくれる場所でもあります。

今回水野さんに案内いただいた山内周辺には、他にも修験道の道や戦国時代の激しい戦いの犠牲者が祀られた神社などがあり、他にも古墳・城跡などネタに尽きません。来月5月にはそんな水野さんも参加する八女のオルレもあるそうですので、ぜひ参加されてみてはいかがでしょうか?八女の違う一面がきっと見えてくるはずです。渡邊

◉山の井堰(山の井公園内)
住所:福岡県八女市山内1208

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