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【地域のこと/観光協会】車社会になる前の八女の姿。観光案内士の山田さんに伺う、地域と地域、人と人をつなぐ「バスターミナル」の思い出。/Yame Rediscovery vol.26

11月 9th, 2018

【地域のこと/観光協会】車社会になる前の八女の姿。観光案内士の山田さんに伺う、地域と地域、人と人をつなぐ「バスターミナル」の思い出。/Yame Rediscovery vol.26

八女は正直、あまり交通の便はよくありません。八女市中心部の近くに、電車の駅がないためです。最寄りのJR羽犬塚駅や、西鉄久留米駅などからバスを乗り継ぐ必要があるので、急いでいるときはちょっと困ったりしますが、某番組の「ローカルバス旅」のようなまったり感が楽しめるという利点もあります。

現在では、すっかり車社会になっている八女ですが、学生さんや車を持たない人たちにとっては、バスはいまだに大切な足です。こればかりは致し方ないことかもしれませんが、人口減少により、日本各地でどんどんローカル線が消えていっています。八女でも実は、1958年に西鉄福島線、1985年にJR矢部線という2つのローカル線が廃止となった歴史があるのです。

車社会になると、どうしても国道沿いの駐車場付きの大型店舗ばかりが発展し、街中での小さい商店などが消えていきます。実際、八女でも車で行き来することがほとんどで、たくさんの人が街中を歩いている光景はなかなか見ることができません。

車の便利さを日々享受している身としては、一概に車社会が悪いとはもちろん言い切れないですが、地方に住んでいると、そうした交通事情の時代の移り変わりと影響を感じざるをえないことが多いです。

今回、お話をお伺いした観光案内士の山田さんからは、八女が車社会になる前の時代の「交通の要所」としての八女福島が浮かび上がってきました。いまは利用者も減っていっているバスターミナルですが、当時はそこは町の中心を成す、人と人の経由地のような場所だったのです。

かつて八女に存在した、幻の2つの駅。

八女福島地区には、かつては久留米から福島までをつなぐ西鉄福島線と、羽犬塚駅から筑後福島駅を経由して黒木駅までをつなぐJR矢部線の2つの電車が通っていました。

西鉄福島線はなんと1913年開通した歴史のある路線だったようで、国道工事のために撤去要請がある1958年まで、久留米と八女をつないできました。現在は同じルートを、西鉄バスの30番・31番路線がつないでいます。

対する国鉄(JR)矢部線は、終戦後すぐの1945年12月に開通。なんと、終戦後に日本で初めて新しく開通した路線だったのだそうです。地域住民の重要な足として、活躍し続けますが、あえなく1985年に廃止となってしまいます。ちなみに八女福島最寄り駅だった「筑後福島駅」跡地には、現在は八女伝統工芸館が建っています。いまでも工芸館の裏には、当時の線路が一部残されています。

このJR矢部線がつないできた「羽犬塚〜八女福島〜黒木」ルートをいまでも引き継いでいるのが、ローカルバス路線の「堀川バス」です。

戦後の八女の変遷を見つめてきた山田さん。

今回お話を伺った観光案内士・山田さん(72歳)の学生時代はこの堀川バスと切っても切れないものでした。山田さんは八女福島郊外の忠見の出身。ちょうどベビーブームの先駆けとなる頃、車なんてなかった時代でした。

進学した久留米商業高校へ通うために、毎日、福岡行き急行バスに満員でぎゅうぎゅう押し込まれながら通っていたそうです。
寒い時期になると、帰りにバスを待っているうちに日が暮れてしまったりしていたそう。バスが開通して便利になったとはいえ、八女から久留米まではそれなりの距離だったわけです。

山田さんは、高校卒業後は、久留米の月星(現在のムーンスター)に就職します。19歳でお母さまを亡くし、姉妹もすでに家から出ていたのでお父さまと実家の本町で2人暮らし。働きながらも家事のために早く帰らなきゃと、バスに飛び乗る日々。当時の久留米は文化的にもかなり栄えた町だったと思いますが、遊ぶ暇もなかったそうです。

月星で現在の旦那さまと出会い、結婚のため退職します。それからは車も普及しはじめ、バスに乗る機会も一気に減ったといいます。山田さんは専業主婦として子供たちを育て、ひと段落したところで、当時八女の一大産業となっていた「電照菊」の組合で事務員として定年まで働いていたのだそうです。

戦後の八女を知る方々にお話を聞くと、いつも「活気」の溢れる町の様子が伝わって来ます。人も子供も多く、さまざまな産業がどんどんと伸びていった時代。山田さんの人生も、久留米のゴム産業から八女の電照菊まで、この地域の産業の変遷を体現しているようです。

タイムスリップしたような懐かしさ。当時のバスターミナルの情景。

今回は、そんな山田さんと一緒に「久しぶりに来た」とおっしゃる堀川バスのバスターミナルを訪れました。
「そういえば、お喋り好きな、切符売り場のお姉さんがいつも窓口に座っていた」と語るその横顔は、昔にタイムスリップしたよう。いまでも変わらない看板や路線図を見ながら「朝や夕方は人でゴッタ返していた」と当時の様子を話してくださいました。

知り合いにばったり会ったり、お友達とおしゃべりしたり。この細長いターミナルに思い出を重ねる人は、きっと大勢いることでしょう。山田さんと一緒に歩きながら、当時の情景を想像するのが楽しかったです。

ちなみに、堀川バスの車体の色は、赤色とクリーム色をベースに青色と紅白のストライプという何とも素敵な組み合わせ。
1929年に堀川久助らが創業した合資会社「快進社」が、黒木で乗合バスの運転を始めたのがきっかけで生まれた堀川バスは、6年後に屋号を「堀川自動車」に改めます。この車体の色は、その当時からほぼ変わっていないのだそうです。

1973年には商号を現在の「堀川バス」と改め、その名が今でも残っています。八女の人口が減るにつれ1999年、2006年、2011年に大規模な路線の改廃を強いられたのですが、最近では平山温泉にも延伸するなど新規需要開拓にも力を入れているそうです。

ネットが発達している近年では、その場にいかなくても、人と話したり交流したりすることができるようになりました。しかし、昔は自分の足で動かない限り、地域と地域、人と人は出会わないしつながらない時代です。

交通インフラというのは、そういう意味でも社会にとって大きな役割を果たします。点と点をつなぐ「線」がどれだけ作れるか。これからの時代においても、考え続けなけれなならない課題かもしれません。渡邊・原(二)

 


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